No.0029

映画「大いなる沈黙へ」レビュー

text : mama(美学者母)
2014年9月15日(
月曜日)執筆

 

久々に見応えのある映画を観たな、という感覚を得た。
まず映画の概要であるが、 場所はグランド・シャルトルーズという、
フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院。
ひたすら厳格な日常を撮影したドキュメンタリー映画である。
まずこの映画のキーワードになる言葉が、 映画の最初と最後にでてくる。
それがこの一文である、

主の前で 大風がおこり、山を裂き、
岩を砕いたが 主は おられなかった
風の後 地震が起こったが 主は おられなかった
地震の後 火が起こったが 主は おられなかった
火の後 静かなやさしい さざめきがあった
(列王記 上 19章11節ー12節)

この言葉を映像化した。
と言ってしまうとあまりにも短絡的なのかもしれないが。
この映画にとって、というよりも。
ある種、キリスト教上における文化や価値観が、
この文章に集約されている様に感じた。
まず映像の表層的な「美」というものに触れておくと、
色彩や構図などは、 どのカットを切り出してもどこかで観た様な風景。
それはどこかの美術館で観た西洋絵画。
徹底的に西洋的美意識が細部まできっちりと丹念に映像化されている。
つまり表層的な「美」がいかにも西洋的であるという事は、
その中味や奥行きはつまり西洋美学や西洋哲学の構造を持っているわけです。
この映画に関しては特にその点にスポットあてて考えたいと思います。
まずこの映画の最初と最後の旧約聖書の引用文を分析すると、
有音、結界、無音。
という様な解釈ができます。
これを変換すると、 人間、結界、神。
とも解釈が可能になります。
まずこの解釈をベースに映像を観ていくと、
ただひたすらに修道院の日々が映像化されているのですが。
「音」に注目すると、
そこで祈りや生活を営む修道士たちの「音」だけが聴こえてきます。
そこにある種人間の存在と音の関係性について気づかされるワケです。
よくよく考えますと私たちが普段聴いている「音」とはなんでしょうか。
そのほとんどが「人間」に起因するものです。
この静寂に包まれた「修道院」で初めて「人間」と「音」の関係、
「音」と「人間」の関係性の重要さを痛感し、
自らの「存在」を意識します。
映像では時より周りの「大自然」を映し出します。
またその「大自然」がささやく「音」も重要な事に気づきます。
「人間」が起因しない「自然」の音です。
自然の木々や大地からかすかな「音」が聴こえてきます。
そこに「人間」が存在しなくても、
「音」がするのです。
それがある種「結界」と言えるのではないでしょうか。
そして「無音」は神の領域です。
次にこの映画でも特に多用されている、
西洋絵画的な「明」「暗」にも言及していきましょう。
私たちの世界は「暗」によって支配されています。
その「暗」に「明」が命を与えます。
ここで言う「命」とは「人間」と理解して下さい。
すなわち、 明、結界、暗。という解釈ができます。
それを変換すると、 人間、結界、神。
とも解釈が可能になります。
この解釈の構造は「音」の構造と同じになります。
すなわち「明」や「有音」が人間の存在です。
そして「結界」があり、 「暗」や「無音」が神の存在です。
これは西洋の芸術を理解する上ではベースになる構造です。
例えば西洋絵画やキリスト教絵画で考えましょう。
「暗」という領域は「神」の領域で、
私たちには「神」を造形として捉える事ができません。
そこに「人間」世界の「明」を与える事により、 「神」は「人間」世界で捉える事のできる形として現れます。
これらをベースに例えば「ジョン・ケージ」の、
4分33秒という作品を考えてみると面白いです。
オーケストラは楽器を持ちながらも「音」を奏でません。
しかし、「無音」にはならないのです。
そこには、聴衆の僅かな動きの音や息づかいなど。
「人間」に起因する「音」が聴こえてきます。
西洋的な芸術とはいかに「神」に近づこうとする行為なのです。
そしてこの映画そのものも「芸術」であり。
修道院や修道士などの信仰そのものを通して、
信仰そのものを映像にし、さらに「神」に近づこうというする。
ある種究極的な西洋美学と言って良い「映画」です。

美学者母

http://www.ooinaru-chinmoku.jp/