No.0036

僕、36歳に産まれました。

text : mama(美学者母)
2014年1月20日(
月曜日)執筆

 

どうも皆さんお誕生日メッセージありがとうございます。
この場を借りましてお礼を返させて頂きます。
さてさて、36歳になったので記念に何か書きますかwww
と言う事で、この題目「僕、36歳に産まれました。」。
言葉として何かへんですよね、 でも僕としては凄く普通なんですよね。
これって人間はいつ産まれ、そしていつ死んでいくのか。
その様な事柄を内在した題目です。
僕たちは何の疑いも無く「産まれる」「死ぬ」という事、
その定義をアプリオリに認識しているように思います。
お母さんのお腹の中からでてきて「産まれ」。
そして老人になり「死んでいく」。 これってしかし真実なのでしょうか。
僕はいつも全ての事柄を疑いますwww
小さい頃からそうでした、
教科書に書いている事なんて信用できないって思って読んでました。
勿論、他人も家族も友人も。 権威も憲法も偉人や天才も。
信用できるのは「自分」だけ、 それが僕の思考回路です。
だから「アート」が大好きになったんですがね。
そうやって「疑問」を常に抱く僕には、
例えば先述した「産まれる」「死ぬ」という、
いかにも「アプリオリ」な概念も信用できません。
具体的に面白い例をだします。
一般的な定義で私が産まれた生年月日は1978年11月10日です。
しかし、私はその日の事を全く覚えていませんwww
覚えていないというか、自我も無かったでしょうから。
自分という認識さえ無い状態で、
もっと詳しく言うと母親の一部でしかなかったのです。
しかし一般的に言えば僕は「産まれている」わけです。
実際は母親のお腹の中にいるのと変わらない状態。
もっと言えば自己認識においては自分は存在していません。
客観的に物理的に、「産まれた」とされているのです。
その逆を考えてみましょう。 私の母親は2年ほど前に亡くなりました。
そして客観的に物理的に、荼毘に付されて骨しかありません。
確かに一般の定義上は死んでいるとされますが、
僕の心の中には生きているんですね。
これは私自身の心の中の疑いの無い事実です。
ではこの二つの「産まれる」事例と「死んだ」事例。
よく考えて読んで下さい。
「産まれる」時の人間も、 「死んだ」時の人間も、
自己認識において「産まれた」「死んだ」という認識は無いのです。
その本人にとっては「産まれる」経験も「死んだ」経験も無い。
そのような考察からどのような事がわかるのか、それはこうです。
私たちが「産まれる」としている事や、 私たちが「死んだ」としている事。
それは一つの客観的概念でしか無いと言う事です。
もっと分かりやすく言うと「一例」に過ぎないという事です。
それは私たちが「体験」として「産まれる」「死んだ」、
その様な「体験」が絶対的にできないからです。
そこから考え得る事が、
「35歳の僕が死んだ」「36歳の僕が産まれた」。
という客観的概念です。
もっと言うと、 「昨日の僕が死んだ」「今日の僕が産まれた」。
このように客観的概念を定義する事も可能です。
最後に、 この世の中に絶対的な概念は存在しません。
概念とは相対的にしか存在しえないものなのです。
その上で物事を考える事が重要です。
人間の思い込みの力は絶大です。
それはプラスにもマイナスにも大きく揺れます。
このような思考のコントロールは重要です。
人間の根源的な要素でそれはアートに通じます。
36歳の誕生日を記念してwww このような記事を書いてみましたwww
僕からの皆様へのお返しとさせて頂きます!!!