No.0107

反安倍、反安保法案とデュシャン、泉

text : mama(美学者母)
2015年9月17日(
木曜日)執筆

 

安保法案は近日中に採決されます、
ぜひこれからの積極的平和主義を実行してほしいと思います。

僕なり今回の反安倍、反安保法案の方々を観て、
僕自身どういうふうに分析しているのか、
それを皆様に伝えておきたいと思います。

「あ〜美学者母はこういう風に観ているのかぁ〜」
と皆様のご参考にして下さい。
僕はアートを専門にしていますので、
そのアートでも同じ様な光景を観た覚えがあります。
それを例にお話しさせて頂きます。
それは、 2004年に大阪・国立国際美術館で行われた、
マルセル・デュシャンの「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展。
普段から毎回国立国際美術館へ行っているので、
非常に理解できるのですが、 この展覧会は非常に盛況な展覧会でした。
逆に僕からするとマルセル・デュシャンって、
そこまで一般的に人気があるのかぁ〜って驚きましたwww
しかししかし、 その展覧会で非常に面白い光景を目にするわけです。
現代アートでは一番有名な作品といってもいい作品、
マルセル・デュシャンの、「泉」という作品。
この作品を観ている観賞者が何百人と「泉」をとり囲っている。
しかもその便器を舐め回す様に凄い眼差しでwww
あたかも「ギリシャ彫刻」のようにwww
これが日本の現実かぁ〜と思いました。
そもそもこれは以前にも文章で書いた様に、
日本人は「アートの作法」を知らないという事なのですね。
例えば「ギリシャ彫刻」のコントラポストを観るのと、
まったく意味が違うわけです。
例えば「ギリシャ彫刻」のコントラポストは、
人間、肉体、部位、部分などの関係性を表層させます。
その上で、感傷的に言うと「生命性」が宿るわけですね。
う〜ん、マルセルデュシャンの「泉」にそのような視線は、
まったく意味を持たない事を日本人は未だに理解できないわけです。
私はこのようなエピソードをアートの現場でなんども目にしていますが、
まさに今の反安倍や反安保法制は、
このマルセルデュシャンのエピソードと同じなのです。
以前に書いた文章でも述べましたが、
日本人は「アートの作法」を理解していません、
だからマルセルデュシャンの作品が観れないのです。
それは政治も同じだと言えるわけです、
アートも政治も非常にハイコンテクストなもので、
それをただ「感傷的」「表面的」「感覚的」にだけでは理解できない。
アートには「アートのロジック」があるわけです。
だからアートを理解しようとすれば、
そのアートのロジックを理解しなければなりません。
すなわちアートの構造、論理、文脈、など様々に。
では、 政治にも「政治のロジック」があるわけです。
だから政治を理解しようとすれば、
その政治のロジックを理解しなければなりません。
すなわち政治の構造、論理、文脈、など様々に。
アートも政治も同じで、 現代において高度に文脈化され、
高度な論理が展開されています。
そこには普通の国民が理解するには複雑すぎる節があります。
だからこそ議会制民主主義は、
国民の代理として政治家が政治を行っているわけですね。
ここから言えますのは、
基本的に僕も含めて国民の意見というのは非常に幼稚であると言えます。
感傷的、表面的、感覚的に政治を判断する事は非常に危険なのですね。
その意味でこの議会制民主主義は非常に優れた政治システムで、
日本の議会制民主主義はある意味世界に誇れるものです。
しかし。 反安倍、反安保派からはこの議会制民主主義すら否定しだしています。 これってどっちが独裁なんでしょうか???
自分の意見が通らないと政治システムまで否定し、
国民の意見が政治に反映してないからだと言います。
そもそも高度化した社会において、 国民はそれぞれに働き、
様々な時間を忙しく過ごしています。
誰も、四六時中政治運動なんてできません。
だからこそ、政治をある程度政治専門の人間に付託する。
それが議会制民主主義で、
国民の意見が直接的に政治に反映される制度ではないのです。
また僕は高度な社会においては、 直接的に国民の意見が政治に、
そのまま反映される事自体危険だと考えます。
小さな国の小さな政治でまだまだ未成熟な社会を、
持った国ならいいかもしれません。
日本位の規模、また社会が成熟した国では、
議会制民主主義は最適な制度です。
多様な意見があっていいと思います。
そして、自らの政治思想を表明する事は、
民主主義にとって当然の権利です。
しかしその権利を無防備に振りかざし、
権利の肥大化をさせている人たちが、 反安倍や反安保の方々に散見されます。 何事にも「作法」を重んじて頂きたい。

美学者母