あの展覧会から何年たつのだろうか。
森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレ。
今でもあの展覧会は非常に興味深かった、
「世界の中心には忘却の海がある」
その展覧会のテーマにも大きな衝撃を受けた、
森村泰昌の計り知れない能力を感じた。
人間にとって忘却とはなんであろうか、
嫌なことを忘れる、
覚えていたはずなのに忘れる、
大事なことを忘れる、
しかし、
忘れたいのに忘れられない。
忘却とは記憶と対極の概念なのだろうか、
それは違う、
忘却とは記憶と一体である。
私たちは忘れることで記憶することができるのだ。
では私たち人間は何を忘れ、
何を記憶しているのだろうか。
そして忘れた記憶はどこにいったのだろうか。
さらに忘却の本質に迫る。
私たちは忘却を、
記憶が無くなる事と認識しているが、
実はそうではない、
忘却とは、
記憶が私たちの認識できない次元に昇華されているのだ。
すなわち忘却が貴方自身を私たち自身を定義するのだ。
人間は3歳までにその人格のほとんどを形成するという、
しかしほとんどの人間は、
3歳までの記憶を忘却している。
これは何を意味しているのだろうか、
私たちの本質は、
私たちの記憶には存在していない、
すなわち私たちの記憶という、
認識可能な領域には、
実は私自身が私自身である本質は無いのである。
記憶重視の現代社会、
この忘却というものは、
私たち人間の本質的なテーマではないだろうか。
特に日本の教育は記憶重視の教育である。
記憶する事が美化され、
記憶する事を美徳とする。
昨今ではコンピューターの発達に伴い、
人工知能、ニューラルネットワークによる、
ディープラーニングなどの研究が盛んである。
さらに知識の脳へのアップデートも可能になっている。
そんな中で人間が人間たらしめる原理や真理、
それらが重要な本質となっている。
そんな中で私は、
「忘却」
それこそが人間が人間たらしめる原理だと考える。
もしコンピューター、人工知能が、
恣意的に忘却をしても、
それは本質的な忘却ではない。
コンピューターや人工知能に、
「忘却」は不可能なのである。
忘却とは、
人間が人間たらしめる、
貴方が貴方たらしめる、
私が私たらしめる、
最小のアーキテクチャなのではないだろうか。
私がこの「忘却」に本質を見出したのは、
2014年の横浜トリエンナーレ、
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
をきっかけに、
2016年にリリースされた
宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」、
を経て熟考したプロセスである。
最後に忘却の本質を申し上げるとともに、
宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」MUSIC VIDEO、
をぜひご視聴頂きたい。
美学者母