最近の創造者というのは、
批評される事が非常に少ないのだと思います。
仲間内や一定のコミュニティの中で、
持ち上げあいながら、
全く良くないものが評価され、
それを無自覚に受け入れている。
それは良い面もあれば悪い面もあり、
一概に悪いとは言い難いわけです。
それはそう言った事実で、
経済が回ってしまうので、
一つの形態として機能します。
しかしそれは、
もうそれ以上の者になれないというのが、
一番問題点だと私は考えています。
それは創造者たる者、
概念的アウトラインをいかに広げていくか、
それが創造者たる所以だと考えているからです。
世界を限定して、
小さい世界で生きていくのは、
私は創造者とは呼びません。
どんな世界にも内向きの世界というのはあります。
特に私が生まれ育った大阪府岸和田市などは、
小さな村社会で色々なものが回っていますから、
それは当然ビジネスやクリエイティブでも同じです。
いわゆるマイルドヤンキーな世界で、
スクールカーストが大人になっても有効です。
つまり、
小学校、中学校、高校などで、
人気がありリーダー的な人間は、
そのまま大人の世界の権力者となるわけです。
そして、
岸和田などの地元で、
色々な活動やビジネスをやっていこうと思えば、
それなりのスクールカーストの上位者との繋がり、
また世代間の人脈などで、
その人の価値は決まってきます。
それはその人の実力とは無関係に、
その仕組みがその人のある意味価値を決めるのです。
この様なコミュニティの仕組みは、
私はあらゆるジャンルで観てきました。
ファッション、音楽、アート。
言ってみればどこも同じ様な構造で、
実力とは関係なく、
コネや人脈が一番大切な力です。
私はその様な事が根っから大嫌いなわけです。
その様な部分でも、
私は自分自身の地元である、
岸和田というコミュニティからは、
あえて距離を置いて活動しているのも事実です。
コネや人脈とか糞だと考えているからです。
実力や才能があるものがちゃんと評価されるべきです。
私にはそんな根底があるからこそ、
「批評」という、
ある一定の尺度を持って客観的に評価する。
その様な行為を大切にしてきました。
その上で、
やはり今まさに批評というものが、
とても大切だと再認識しているわけです。
現代はインターネットで色々な表現を、
写真や動画で観る事が可能です。
以前ではそのコミュニティで止まっていたものも、
多くの人に観られてしまう状態なのです。
先日、弾き語りの前で、
コンテンポラリーダンスをしている映像が、
Facebookに流れてきました。
僕は20年以上コンテンポラリーダンスが好きで、
長い間観てきていますが。
とてもじゃないですが、
語れるレベルにありません。
しかしFacebookで皆んなに絶賛されている。
この様な光景は、
音楽、ダンス、映像、絵画、写真、
あらゆるもので見受けられます。
これが小さなコミュニティの「痛さ」です。
身内に絶賛されて満足している人たちです。
インターネット時代にこういう人達が増殖しています。
このインターネット時代だからこそ、
やはり批評というものが非常に必要な時代だと、
最近とても強く感じています。
私はアートを専門としていますが、
芸術全般を批評する事ができます。
それは芸術構造というのは、
造形、音、映像、ダンス、等、
その構造は芸術構造としては、
同じ構造を有しているからです。
例えば僕はファッションの、
コム・デ・ギャルソンの批評をする事もできるし、
日本語ラップの、
ZORNを批評する事もできる。
コンテンポラリーダンスなら、
ピナ・バウシュを批評できるし
映画なら、
タル・ベーラも批評できる。
私はこれらを一つの構造として、
論理的に説明する事ができます。
先のFacebookのダンサーの話に戻りますが、
もしあなたが創造者なのに、
批判されずに、
身内に持ち上げられているだけの人だとするなら、
それは非常に不幸な事だと思います。
それはあなたを批判的に捉え、
何がダメで何を良くすればもっと良くなるのか、
その様な言葉をくれる人が絶対的に必要だという事。
今回は先述したFacebookのダンスを観て、
あまりにも寂しく感じた、
悲壮感が半端なかったので、
この様な文章を書かせていただきました!!!
それではっ。
美学者母