マルクス・ガブリエルの、
「なぜ世界は存在しないのか」、
というものを改めて実感したのは最近、
世間的にも天才と言われている二人の議論を見て、
やはり「世界は存在しないのだ」と実感した。
それはその天才二人の議論が全く噛み合わないからである。
その上で私はこの二人がなぜこんなにも、
議論が噛み合わないのか、
明確に理解することができるのです。
私は天才ではないわけですが、
この様な横断的認知という能力が、
自分でもある様に考えています。
この二人の言っていることは、
どちらとも全く正しいことを言っていますが、
アンチノミーを起こしてしまうのです、
実は物事の真理とは、
このアンチノミーこそが真理なのです。
科学的言えば「自発的対称性の破れ」とも、
捉えることができるのではないでしょうか。
つまり人間の概念世界というのは、
「つじつま合わせの世界」であるという事です。
その様な論理からいうと、
私たちの概念世界こそが虚像であり、
概念世界では捉えられない世界が真理である。
その様な事になるわけです。
つまり概念世界では捉えられないものが、
「真理」であるならば、
人間は真理を捉えることができません。
そして「世界」というものが、
「真理」の現れであるのであれば、
それは「世界は存在しない」、
その様にも言えるという事です。
という事でこの辺から本題の、
アートのある場所という話をしていくわけですが、
それもこの前述した論考と関係の深い事なので、
その辺も考慮して読んでください。
まず「アートのある場所」というのは、
全く恒久的なものではないわけです。
それは美術史的な起源的アートもそうですが、
「アートのある場所」というのは、
常に変化してきています。
古典で言えば「権威」、
近代で言えば「美術館」、
現代で言えば「市場」、
そして私が今取り組んでいる、
ポスト現代アート、
ポスト現代美術の概念。
「量子論美術」「芸術派生」、
これらの「アートのある場所」はというと、
これは「情報空間」である。
その様に考えています。
これはアートに限った話ではなく、
必ずアートは社会システムと同期します。
ですから、
古典は「権威」(貴族的社会)
近代は「美術館」(公共的社会)
現代は「市場」(資本的社会)
量子論美術、芸術派生は「情報空間」(分散型社会)
この様に私は定義づけています。
そしてアートはいつの時代も、
造形を使って真理にたどり着こうとする行為です。
しかしこれらは冒頭にも記述した通り、
アンチノミーな振る舞いなのです。
それは、
造形という虚像を通して、
造形では表層できない真理を、
造形で表層させる。
この様なアンチノミーな振る舞いそのものが、
実は真理であるということを理解することが重要です。
そしてそれは、
社会的構造、
社会システムなどが変化すれば、
それを表層させるための造形、
もっと言えばマテリアルは変化する。
その社会的構造や、
社会システムの、
変化に合わせて表層が変化しなければ、
その真理は浮かび上がってこないということです。
ここまで長々とお話ししましたが、
簡単に言えば、
ポスト現代アート、
ポスト現代美術である、
量子論美術や芸術派生のある場所は、
「情報空間」である。
その様な事を今回はお伝えしたかったわけです。
それでは皆さん次回お楽しみに!!!
美学者母