No.254

アートがアートであり続けるには、
アートがアートで無くなる必要がある。
(芸術派生宣言から)

text : mama(美学者母)
2018年6月3日(日曜日
)執筆

 

最近特に物事の本質を考察する時に、
その物事の安定さと不安定さを考えるわけです。

私たちが生きている世界の本質とは、
非常に不安定であり、
常に不確実なものである、
それが世界の本質なのです。

しかし普段私たち、
特に現代、
発展した科学や、
成熟した社会において、
安定した世界、
確実な世界、
というものが、
何の疑いもなく存在し、
それをアプリオリに信じ込んでいる。

つまり現代において、
文脈的、演繹的、帰納的、
その様な概念世界が、
非常に強化されているわけです。

現代のその様な状況においては、
物事の本質、
世界の本質は、
全くみえてこないのです。

 

それはどういうことか?

簡単に日常生活で考えてみると、
私たちは一年後がある事を疑わない、
昨日話した知人が、
今日もまた話せる事を疑わない、
冷蔵庫に入れたお茶が、
数時間後には冷えている事を疑わない。

この様に私たちは自明のごとく思い込んでいる事、

この全てが不安定で不確実であるという、
その本質がみえなくなっている、
その事に全く気づきもしないし、
そもそもその様な事が無いとされているのです。

つまりこの様な事から何が言えるのかというと、
科学が発展し、
社会が成熟していくという事は、
物事の本質、
世界の本質から、
どんどんと離れていく。

つまり反比例していくわけです。

その上でアートの役割が重要になってくるわけです。

アートとはその、
現在の思い込みと、
本質との乖離を、
その思い込みを不安定に、
不確実にする事で、
人間に本質を露呈させる、
その様な作用を持っているわけです。

しかし現在、
物事の本質、世界の本質を、
露呈させる作用を持っている、
アート自体が、
その本質から、
思い込みの世界へと成り下がって、

その作用を発揮できないものとなっています。

それはアートが、
古典、近代、現代と経て、
アート自体が、
非常にコンサバティブなものになってしまった。

つまりアートというものが、
人間のアートという思い込みにより、
本質を露呈させるという作用を、
失ってしまったという事なのです。

 

題目でもありますが、
この状況において、
「アートがアートであり続けるには、
アートがアートで無くなる必要がある。」のです。

これはまさに私が宣言している。
「芸術派生」なのです。
アートがアートであり続けるには、
アートというものを、
不安定で不確実なものにしなければ、
そもそものアート自体の本質が、
失われるし、
現在は失われている、
私はそう考えているのです。

 

その上で、
私は「芸術派生宣言」を宣言し、
アートそのものを、
不安定に不確実にする事で、
アートそのものの本質を、
露呈させるという行為に他なりません。

 

私が尊敬している作家、
マルセル・デュシャンは、
芸術を不安定に不確実にする為に、
「芸術の世界」へ「日常の世界」を仕込みました。

しかし私は、
芸術を不安定に不確実にする為に、
「日常の世界」へ「芸術の世界」を仕込むのです。

これはマルセル・デュシャンの行為に対し、
球を裏返す行為に他なりません。

現在においてアーティストは、
アートそのものの思い込みを、
乗り越えなくてはならないのです。

その上で私は、
この様な言説を「アート」としています。

アートとは、
常にアートで無くなる行為を行い、
自らがアートである事を、
不安定に不確実にしていく、
それがアートの本質なのではないでしょうか。

 

 

 

美学者母

 

 

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