最近特に物事の本質を考察する時に、
その物事の安定さと不安定さを考えるわけです。
私たちが生きている世界の本質とは、
非常に不安定であり、
常に不確実なものである、
それが世界の本質なのです。
しかし普段私たち、
特に現代、
発展した科学や、
成熟した社会において、
安定した世界、
確実な世界、
というものが、
何の疑いもなく存在し、
それをアプリオリに信じ込んでいる。
つまり現代において、
文脈的、演繹的、帰納的、
その様な概念世界が、
非常に強化されているわけです。
現代のその様な状況においては、
物事の本質、
世界の本質は、
全くみえてこないのです。
それはどういうことか?
簡単に日常生活で考えてみると、
私たちは一年後がある事を疑わない、
昨日話した知人が、
今日もまた話せる事を疑わない、
冷蔵庫に入れたお茶が、
数時間後には冷えている事を疑わない。
この様に私たちは自明のごとく思い込んでいる事、
この全てが不安定で不確実であるという、
その本質がみえなくなっている、
その事に全く気づきもしないし、
そもそもその様な事が無いとされているのです。
つまりこの様な事から何が言えるのかというと、
科学が発展し、
社会が成熟していくという事は、
物事の本質、
世界の本質から、
どんどんと離れていく。
つまり反比例していくわけです。
その上でアートの役割が重要になってくるわけです。
アートとはその、
現在の思い込みと、
本質との乖離を、
その思い込みを不安定に、
不確実にする事で、
人間に本質を露呈させる、
その様な作用を持っているわけです。
しかし現在、
物事の本質、世界の本質を、
露呈させる作用を持っている、
アート自体が、
その本質から、
思い込みの世界へと成り下がって、
その作用を発揮できないものとなっています。
それはアートが、
古典、近代、現代と経て、
アート自体が、
非常にコンサバティブなものになってしまった。
つまりアートというものが、
人間のアートという思い込みにより、
本質を露呈させるという作用を、
失ってしまったという事なのです。
題目でもありますが、
この状況において、
「アートがアートであり続けるには、
アートがアートで無くなる必要がある。」のです。
これはまさに私が宣言している。
「芸術派生」なのです。
アートがアートであり続けるには、
アートというものを、
不安定で不確実なものにしなければ、
そもそものアート自体の本質が、
失われるし、
現在は失われている、
私はそう考えているのです。
その上で、
私は「芸術派生宣言」を宣言し、
アートそのものを、
不安定に不確実にする事で、
アートそのものの本質を、
露呈させるという行為に他なりません。
私が尊敬している作家、
マルセル・デュシャンは、
芸術を不安定に不確実にする為に、
「芸術の世界」へ「日常の世界」を仕込みました。
しかし私は、
芸術を不安定に不確実にする為に、
「日常の世界」へ「芸術の世界」を仕込むのです。
これはマルセル・デュシャンの行為に対し、
球を裏返す行為に他なりません。
現在においてアーティストは、
アートそのものの思い込みを、
乗り越えなくてはならないのです。
その上で私は、
この様な言説を「アート」としています。
アートとは、
常にアートで無くなる行為を行い、
自らがアートである事を、
不安定に不確実にしていく、
それがアートの本質なのではないでしょうか。
美学者母