No.255

言語や言説と造形や美術は実は同じものである。
(造形作家や美術作家の思い上がりは
もうやめたほうがいい)

text : mama(美学者母)
2018年6月5日(火曜日
)執筆

 

特に日本の造形作家や美術作家の思い上がりというか、
その幼児性には、
本当に嫌気がさすわけです。

ただ無責任に作品だけ創って、
他人に観せてどうだって言うわけですね。

その上、
言語や言説での論理的説明とか、
鑑賞者を納得させる言葉を使うことを、
極端に嫌うわけです。

むしろ、
それをする事が作法として、
無作法だと思い込んでいるくらいです。

なのに、
自分の作品には造形を超えた、
何かを表現している、
そんなことを言う人たちが、
たくさんいます。

これは勘違いも甚だしい。

 

その人たちから言うと、
言語や言説にできないものを、
作品にしているのだから、
言語や言説で説明しないのだと。

あのね、
この世の中に、
全てのことを、
きちっり伝える事ができるものなんて、
「一つたりとも無い」ですよ。

科学、数学、物理だって、
その概念世界での合理性なのであって、
全てのことは説明できない。

当然、 言語や言説だってそうです。
そしてそれぞれの表現は、
ただそれだけを表しているのでは無く、
それ以上のものを表現しているわけで、
別に造形作品や美術作品だけが、
それ以上の表現をしているわけでは無い。

例えば、
波動方程式を見て、
恐怖で心臓がバクバクなる人もいるわけ。

それってどういうことか理解できますか?

それは方程式以上の何かを、
感じているからですね。

それは言語や言説も同じで、
その言語や言説の形や意味以上の、
何かを感じるし表現しているわけです。

ですから、
美術や造形だけが、
それ以上の何かを表現できる方法なのだから、
それを言語や言説することは無作法だというのは、

一神教的盲目性と同じですし、
日本のアートがカルト化する大きな原因です。

私はアートを研究しています。
その上で言語や言説をアート作品として、
この様に発表しています。

これは私なりに研究し、
行き着いた表現形態なのです。

その理由として、
そもそも、
言語や言説と造形や美術に、
差異は無いと考え、
原理的には同じだと考えているからです。

簡単に説明すれば、
それはアウトラインを持ち、
そのラインがゲシュタルトされ、
概念となる。

この概念世界において、
全ての物事に通づる原理です。

それは、
絵画だろうが彫刻だろうが、
象形文字だろうがピクトグラムだろうが、
絵文字だろうが顔文字だろうがです。

日本のアートというのは、
造形作品や美術作品を、
言説したりすることをタブーにすることで、
ある種アートというものを、
神格化し、
自分たちの特権を守る、
つまり既得権益化する為の方策に過ぎないのです。

私は言語や言説をアート作品としています。

それはある種日本アートへのアイロニーなのです。
私はアートを論理的に語ることのタブーを、
一刻も早く取り除きたいと考えています。

 

 

 

 

美学者母

 

 

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