私が哲学を学ぶのは、
あくまで実践のためなんですね。
哲学者や思想家、
美術評論家や批評家、
そんな人たちの哲学の為の哲学では、
全くないわけです。
私はあくまで創造者として、
自らの作品をアウトプットするために、
哲学を学んでいます。
それはなぜか、
作品をアウトプットするのに、
この世界がどう存在するのか、
その手掛かりがなければ、
自分の作品が、
この世界にどう存在するのかわからない。
ですから少しの手掛かりでも得るために、
哲学を学びます。
それと同じ様に、
美学も、
美しいとはなんなのか、
それの手掛かりを少しでも得るために、
美学を学びます。
美しいという手掛かりがなければ、
この世界に美しいという存在が、
どういう存在なのかわからない。
それと同様に、
美術、造形とはなんなのか、
それらを理解するために、
哲学や美学を応用し、
美術、造形の原理を探り、
私自身は作品のアウトプットをするのです。
思想史や美術史をみても明らかなのですが、
哲学や思想と美術や造形は、
表裏一体の関係を持っています。
表裏一体というよりも、
哲学や思想を表層化したものが、
美術や造形といった方がいいでしょう。
今回紹介する、
カンタン・メイヤスーなどの、
思弁的実在論なども、
美術や造形、
それ以上に社会や経済、政治など、
一般社会との関係性は顕著に表れています。
中央集権型のモデルから、
分散型のモデルへの移行が、
世界のあらゆる分野でみられる中、
この様な思想や哲学が、
ある意味もてはやされるのは、
必然的な事だと言えます。
私などが、
哲学書などを読むときに、
学問的な文脈性とか、
細かい言葉の定義づけ、
言説の論理的裏付けや論証など、
基本的にどうでもいいわけですね。
そういう意味でいうと、
このカンタンメイヤスーの、
「有限性の後で」は、
私にとっては、
余計な論証とかが多くて、
非常に鬱陶しいわけですがwww
私にとっては、
これを咀嚼しどう実践していくか、
そちらのウェートが大きいわけです。
その部分で、
この本も含めて、
昨今、
哲学や思想、
美学や美術、
その他の分野、
それらの界隈で言われているのが、
「相関主義」や「因果」などの、
ある種の「相対性」の問題です。
その問題の上に、
ある種の「絶対的」な存在、もの、
それらをどう考えるのか、
それが非常に問題になっています。
ある意味古典的には、
「神」という絶対的なものを据え、
そこから世界を秩序づけることが、
できていたわけです。
そして近代においては、
科学で、
ある種「超越論的」な認識、視点を通じ、
「相対的」に、「因果律」に、
世界を秩序づけされてきたわけです。
しかしそんな中で、
「科学」というもの、
それ自体が現代において、
「神」と同じく「絶対化」され、
ある種「科学信仰」と呼べる、
その様な状態に至ってしまっています。
そんな中で欲されている「哲学」が、
ある意味、
「絶対的」なものが「絶対的」にないという、
「絶対的」な哲学なのではないでしょうか。
そして、
その様な哲学が産まれる契機になったのが、
このカンタンメイヤスーの、
「有限性の後で」という、
哲学書なのだと考えています。
興味のある方は是非読んでみてください!!!
美学者母