No.260

今他人に理解されてるなら
お前のやってる事は二流だな。
(誰にも理解されないという選択)

text : mama(美学者母)
2018年6月26日(火曜日
)執筆

 

私はアート活動をして20年以上経ちます。

もともとアートを始めた頃は、
やはり他人に評価されたい、
他人に理解されたいという思いはありました。

しかしアート活動を20年続けてきて、
今正直に思うのは、
できるだけ他人に理解されたくない、
評価されたくない、
その様な考えがベースとなっています。

それはなぜでしょうか。
人間誰しも承認欲求というものがあり、
理解され評価される事を、
重要に考え、
それ以上に生きていく上での、
モティベーションとなります。

もちろん通常生きていく上で、
理解や評価がなければ、
実益を産むことはできませんので、
それをサスティナブルに続けていくこと、
それ自体も難しくなります。

しかし私は、
この20年以上のキャリアで、
一度たりとも、
理解されたり評価された事がありません。

そんな中で、
私はアート活動、
いかにサスティナブルに、
継続してきたのでしょうか。

それは、
アート活動を始めた当初は、
他人の理解や評価を気にしていたわけですが、

ある時点、

そうですねそれは、
アート活動を始めて2年か3年経ったくらいから、
他人の頭の中と、
私の頭の中が違うのだ。

その様な単純明快なことに気づいたのです。

その頃から、
自分自身の頭の中というか、
思考というか、
その様な自らの概念世界の、
ブルーオーシャンを、
いかに開拓していくのか、
それが私のアート活動の、
根幹をなす様になってきました。

 

つまりこの辺を整理するとこうです。
他人の頭の中、
思考の中は理解できない。

しかし、
私は自分の頭の中、
思考において、
不可能の可能性を探ることしかできない、
そういうことに行き着いたのです。

結局、
他人の中の不可能の可能性を創造する事、
それ自体がそもそも不可能なのではないか、

そして創造者として、
唯一できる事は、
己自身の不可能の可能性に、
帰結するのではないか、
そう考えたわけです。

もちろんその上で、
私が創造する作品を、
他人が理解できないという事は、
非常に合理的な事象であるし、
逆に理解できるという事は、
非常に奇跡的な事だと考えています。

 

この点において、
私は非常に重要な選択をしています。

それは他人を考慮しない、
他人の理解、評価、
それらを完全に無にするという事です。

この様な選択は、
非常に勇気のいる選択ですが、
創造者として、
創造者にとって、
それは最終的にとるべき選択だと、
私は考えています。

それは創造者は、
それまでになかった、
価値観や概念、
つまり唯一無二の、
創造的作品をアウトプットするわけですから、

それを考えれば、
創造者の立場というものは、
相対的では無く、
絶対的でないと、
合理的ではないのです。

私の作品は、
100年後、
200年後、
いやもっと先の、
いつか分からないくらい先、
そんな時空を超えた先に、

奇跡的に一人、
私の作品を理解し価値を観る、
その様な、
繊細で貧弱な作品なわけです。
しかしその様な事にこそ、
私自身は価値を感じ、
今こうしてアート活動をしています。

他人に理解され評価され価値を持つ、
それは奇跡的な出来事だと、
私は考えています。

今、
理解され評価され価値を持つ、
そのほとんどは、
時空を超えて存在しないでしょう。

それは本質的な価値を、
有していないからです。

つまり、
今理解される事、
それは私にとって全く無意味であり、
それに囚われ、
それを自分自身の創作の欲動としているのは、
創造者とも呼べないし、

創造者であっても2流、3流なのだと、
私は考えています。

 

 

 

 

美学者母

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓