私はアート活動をして20年以上経ちます。
もともとアートを始めた頃は、
やはり他人に評価されたい、
他人に理解されたいという思いはありました。
しかしアート活動を20年続けてきて、
今正直に思うのは、
できるだけ他人に理解されたくない、
評価されたくない、
その様な考えがベースとなっています。
それはなぜでしょうか。
人間誰しも承認欲求というものがあり、
理解され評価される事を、
重要に考え、
それ以上に生きていく上での、
モティベーションとなります。
もちろん通常生きていく上で、
理解や評価がなければ、
実益を産むことはできませんので、
それをサスティナブルに続けていくこと、
それ自体も難しくなります。
しかし私は、
この20年以上のキャリアで、
一度たりとも、
理解されたり評価された事がありません。
そんな中で、
私はアート活動、
いかにサスティナブルに、
継続してきたのでしょうか。
それは、
アート活動を始めた当初は、
他人の理解や評価を気にしていたわけですが、
ある時点、
そうですねそれは、
アート活動を始めて2年か3年経ったくらいから、
他人の頭の中と、
私の頭の中が違うのだ。
その様な単純明快なことに気づいたのです。
その頃から、
自分自身の頭の中というか、
思考というか、
その様な自らの概念世界の、
ブルーオーシャンを、
いかに開拓していくのか、
それが私のアート活動の、
根幹をなす様になってきました。
つまりこの辺を整理するとこうです。
他人の頭の中、
思考の中は理解できない。
しかし、
私は自分の頭の中、
思考において、
不可能の可能性を探ることしかできない、
そういうことに行き着いたのです。
結局、
他人の中の不可能の可能性を創造する事、
それ自体がそもそも不可能なのではないか、
そして創造者として、
唯一できる事は、
己自身の不可能の可能性に、
帰結するのではないか、
そう考えたわけです。
もちろんその上で、
私が創造する作品を、
他人が理解できないという事は、
非常に合理的な事象であるし、
逆に理解できるという事は、
非常に奇跡的な事だと考えています。
この点において、
私は非常に重要な選択をしています。
それは他人を考慮しない、
他人の理解、評価、
それらを完全に無にするという事です。
この様な選択は、
非常に勇気のいる選択ですが、
創造者として、
創造者にとって、
それは最終的にとるべき選択だと、
私は考えています。
それは創造者は、
それまでになかった、
価値観や概念、
つまり唯一無二の、
創造的作品をアウトプットするわけですから、
それを考えれば、
創造者の立場というものは、
相対的では無く、
絶対的でないと、
合理的ではないのです。
私の作品は、
100年後、
200年後、
いやもっと先の、
いつか分からないくらい先、
そんな時空を超えた先に、
奇跡的に一人、
私の作品を理解し価値を観る、
その様な、
繊細で貧弱な作品なわけです。
しかしその様な事にこそ、
私自身は価値を感じ、
今こうしてアート活動をしています。
他人に理解され評価され価値を持つ、
それは奇跡的な出来事だと、
私は考えています。
今、
理解され評価され価値を持つ、
そのほとんどは、
時空を超えて存在しないでしょう。
それは本質的な価値を、
有していないからです。
つまり、
今理解される事、
それは私にとって全く無意味であり、
それに囚われ、
それを自分自身の創作の欲動としているのは、
創造者とも呼べないし、
創造者であっても2流、3流なのだと、
私は考えています。
美学者母