No.262

情報一元論としての
芸術、美術、美学。
(世界は情報である)

text : mama(美学者母)
2018年7月3日(金曜日
)執筆

 

先日、
2018年6月24日(日曜日)に、
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)、
第19回が行われた様で、
その後の議論などを眺めていて、
私も現在議論されている、
心身二元論、心脳二元論。
心身一元論、心脳一元論。
これに対して 私なりの立場を表明しておこうと思い、
今回この文章を書かせていただきます。

今までの私の言説などを、
読んでこられた方は、
なんとなく私の考えを理解している?
その様に感じているのですが、
この問題は哲学と科学が、
表裏一体の問題になっているわけです。
古代には哲学は非常に力を持っていたわけですが、
近代に入り、
科学がその哲学を凌駕し、
ある種科学の独壇場となり、
科学の一神教の時代となりました。

しかし科学が先鋭化すればするほど、
それは哲学的問題を含有する様になり、
現代では科学が心を創造しうるのか? という、

科学と哲学表裏一体の問題が、
浮かび上がっている状態です。

そんな中で、
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)で、
議論されている内容は、
私にとっても非常に面白いものです。

ではここで私の立場を表明することにします。

私はこの「心と体」あるいは「心と脳」、
これを一元論的に考えるのか、
二元論的に考えるのかという問題に、

「情報一元論」

この様な立場を表明いたします。
私は唯物論的な世界、
または観念論的な世界、

これをどちらも情報世界であると統一します。

つまり、
「心」も「情報」である。
「体」も「情報」である。
「脳」も「情報」である。

ゆえに「もの」も「情報」である。

その様に、
「世界」のあらゆるものを、
「情報」として捉える。

しかしその情報は、
「数学的なるもの」「計算的なるもの」、

という情報ではないと考えています。

 

それは二進法的なある種「デジタル」ではなく、
「量子論」的な情報。

それは延長する「0と1」の羅列ではなく、
それは刹那にある「総体」としてのマスである。
その様に考えているわけです。

この考えは、
最近の人工知能の研究などを見て、
特に強く確信に至っています。

私は人工知能を研究していく上で、
「意識」よりも「無意識」が、
非常に重要であると考えています。

私が持っている仮説は 「意識」は、
延長する「0と1」の羅列であるが、
「無意識」は、 刹那にある「総体」としてのマスである。
その様に考えています。

私の仮説では、
無意識は私たちが生きてきた上での、
あらゆる詳細の全てを、
刹那にある「総体」としてのマスに、
記憶しているのです。
それは私たちが、
意識では捉えきれない、
膨大な情報を全て鮮明に記憶しています。

しかしそれは、
量子論的なマスとしてしか存在できず、
その部分だけを取り出すことは不可能です。

私はこの量子論的なマスが、
私たち人間の真理だと考えています。

つまり人間の真理は、
「無意識の量子論的情報のマス」である。

そして唯一その、
「無意識の量子論的情報のマス」から、
部分的に情報を呼び出せるのが、
「意識」であると考えています。

つまり極端に言いますと、
私たちはある種、
「無意識の量子論的マス」の「部分」を、
「意識」として「生きている」のです。

これは、
今私たちが生きている、
そのほとんどが、
「記憶」によって、
「成立」しているということ、
それらとも合致する考えです。

 

この様な、
私の考えから私は、
「情報一元論」を提唱いたします。

 

 

 

美学者母

 

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