No.264

ボーダレスな社会と
概念的に分けないという事を、
同義に考えている馬鹿が多いので、
ボーダレスな社会と概念について
もう一度考えてみる。

text : mama(美学者母)
2018年12月17日(月曜日
)執筆

 

えっと2018年ももうすぐ終わりですが、
今年を振り返りますと、
この一年はコミュニケーションの難しさ、
その言葉に尽きる一年だった様に思います。

まさに100人いれば、
100個の世界が存在する、
その様な事を実感しましたし、
私たちが勝手に思い込んでいる、
ある種共通した世界観というもの、
そんなものは存在しないのだと、
そしてそれが存在するのだとすれば、
それは「悟り」の世界だと、
再確認した次第です。

人それぞれの世界がバラバラであるから、
それぞれの人は、
自分が主体として存在する世界が、
普通「世界」であると思い込んでいます。

ここでいう「世界」とは、
全ての人が共通する「世界」です。

つまりそれを前提とすると、
自分自身の「視座」が、
「世界」の「有り様」であるわけです。

さらにこの「視座」こそが、
自分自身の「質」や「量」など、
つまり「個性」や「人格」までもが、
その「視座」から創発されてくるわけです。

それは、
自らの「世界」つまり「視座」から、
観えるものしか「現実」ではなく、
その「視座」から観えないものは、
「非現実」というよりも、
「無」に近いもので、
それを「認識」や「思考」の対象とは、
どうしても捉える事ができません。

つまり冒頭に、
コミュニケーションの難しさという事を述べましたが、
人は自らの「視座」を「共通世界」だと思い込み、
その「共通世界」に存在しない人を、
ある種「敵対的」に、
「差別」「偏見」し「排除」しようとするのです。

 

昨今色々な場面で、
「ボーダレスな社会」という言葉を、
よく耳に聞く事があります。

その根本の「ボーダー」にある原理とは、
このコミュニケーションの不協和にあります。

つまり前述したように、
コミュニケーションの難しさには、
それぞれの人の「視座」がバラバラで、
「共通していない」という事実がある。

まさにそれこそが、
「ボーダレスな社会」というものを、
実現させるコアなのです。

 

しかし最近議論して、
「ボーダレスな社会」や「多様性」というものを、
かなり勘違いしている人が非常に多い事に気づきました。

「ボーダレスな社会」とか、
「多様性」とかよく言っている人の方が
、 根本的にそれを全く理解していないのです。

それは、
「ボーダレスな社会」や「多様性」と言うと、
よし、分けて考えてはダメなんだな、
色んな人がいるからほっておこう、
と言う「無思考」に陥ってしまっている人が多いのです。

しかしその「無思考」こそが、
「ボーダー」なのだと、
この様な人々は気づいていないわけなのです。

先述した様に、
「ボーダー」の原理とは、
コミュニケーションの不協和ですから、
そのコミュニケーションの不協和に対し、
しっかり向かい合い思考しなければなりません。

また「思考」とは、
概念の先鋭化であり、
精密化であるわけで、
それは色々なものを細分化する事でもあるわけです。

 

ですからそもそも、
「ボーダレスな社会」は、
分けて考えない事だという、
「無思考」な態度ほど、
浅はかな態度はないのです。

では本質的に、
「ボーダレスな社会」とは、
一体どんな社会なんでしょうか。

この世の中には数え切れないほどの、
「ボーダー」が存在しています。

男/女
L/G/B/T
障害者/健常者
金持ち/貧乏
年寄り/若者

まず私たちが考えることは、
「ボーダレスな社会」と「無概念」は、
全く違う次元の話である事を確認しなければなりません。

 

色々なものを、
「概念」として一定の「ゲシュタルト」を生成することは、
物事を思考する上で絶対必要なことです。

このことさえ理解できなていない人が多いのですが、
概念上、
男/女と分けて思考しなければ、
社会上そもそもどの様なボーダーがあるのか、
そしてどの様にして、
「ボーダレスな社会」を実現するのか、
その様な答えがそもそも出てきません。

 

先日メディアアート批判の文章を書いたときに、
テクノロジーとアートを分けて考えるのは、
もう時代遅れだとか言われたのですが、
そもそもそこを思考しなければ、
その後の統合されたアートというものも、
語れないわけです。

 

皆さんは簡単な方を選びがちで、
字ズラが良くて、
「ボーダレスな社会」とか「多様性」という言葉が、
ファッション的に使われている様に感じています。

しかし本当は非常に難しい問題であり、
概念化される、
またはゲシュタルトされるということは、
つまり「それ以外」が創発されるわけです。

つまり「男」という概念があれば、
それ以外「女」という概念が創発されます。
今で言えばLGBTもそうでしょうし、
さらに複雑化します。

ではこの様な難しい問題を、
どの様に解決していくのか、
つまり、
「ボーダレスな社会」をどう実現していくのか、
それは冒頭にも述べた「視座」が重要です。

 

「視座」を固定せず「無数の視座」を持つ、
それこそが最も重要です。

つまりそれは、
「世界」というものが一つではなく、
「無数の世界」が存在している。

そして自らが生きている「世界」の、
「常識」や「当たり前」だけを信じるのではなく、
それ以外の「世界」の「常識」や「当たり前」にも、
理解しようという姿勢を持ち、
あらゆる世界に「臨場感」を持つことです。

 

あなたが生きている、
「唯一無二の世界」だと思い込んでいる、
それ以外の世界に、
「臨場感」を持てなければ、
それは「差別」や「偏見」という、
アウトプットにつながってしまいます。

 

この「臨場感」というのは非常に重要です。
一人でも多くの人が、
この臨場感を持てることが、
「ボーダレスな社会」の実現へと繋がります。

 

 

 

 

美学者母

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓