No.265

映画、万引き家族、
是枝裕和監督を観て
(中ザワヒデキの前時代的思考に物申す。)

text : mama(美学者母)
2018年7月8日(日曜日
)執筆

 

中ザワヒデキの人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)から、
強制排除されまして、
凄い気分が悪いなぁと思っていたので、
気分転換に昨日は大阪・難波に遊びに行ってきましたwww

 

その前になぜ僕が中ザワヒデキの、
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)から、
排除されたの?
ってみなさん疑問に思うでしょうが、
私自身もよくわかりません。

ただあるコメントが原因の様ですが、
それが僕を排除する理由になり得るとは、
到底理解できないし、
容認できないわけです。

それでどんなコメントだったか、
私の記憶の限りで再現すると。
「周縁の事を緻密に詳細に語るだけで、
核心は何も言えない奴はクソだわな。」
ほぼこの内容と同じで、

 

もちろん「クソ」というのは、
汚い言葉ですが、
それ以外に人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)を、
排除される理由になりそうな言説はありません。
もし言葉が汚いのであれば、
それを注意すればいいだけのことで、
排除される理由には到底思えません。
そして人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)は、
参加自由なオープンなグループです。

 

という事で、
その後にある人から、
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)に、
戻りたければ、
中ザワヒデキに謝罪しなさいと、
個人的にメッセージがきましたが、
私が何をあやまることがあるのか理解できませんwww

 

 

とここまでは「映画 万引き家族」とは、
違う話で、
その前日の中ザワヒデキとの事件ですが、
「映画 万引き家族」での、
ある種表現されている事が、
この中ザワヒデキの、
ある種「社会集団」としての振る舞いに、
同じ様に問題があると感じたのです。

ではここから少し「映画 万引き家族」の、
簡単な批評も含めて言説していきたいと思います。
この是枝裕和監督は、
私は非常に評価しています。

「映画 空気人形」の監督でもあり、
その「映画 空気人形」は、
「愛」というものを「哲学」している映画です。

そして「映画 万引き家族」も、
非常に「哲学」的な映画だと感じました。
この映画は非常に複雑でカオスな構造を持ってり、
また多数のレイヤーによって構成されているので、

この作品だけでも、
本を一冊かけるくらいの言説はできます。

 

その中でも今回、
この映画を見る前日に、
中ザワヒデキの人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)、
そのグループから強制排除されたので、
それに関わるレイヤーの部分を、
言説していきたいと思います。

まずこの映画の構造自体が、
非常に複雑でカオスな構造を提示します。
それはある種の「疑似家族」的な、
「社会集団」が舞台になっているのですが、
それは「疑似家族」であり、
血縁的な関係は誰一人としてありません。

しかしその集団はある種家族としての、
年齢的レイヤーを有し、
おばあちゃん、
夫婦、
子供、
それは客観的に一昔前であれば、
一般的な「家族」という体裁をしているのですが、
そこに「血縁」的な要素はありません。

またその疑似家族は、
その「社会集団」を形成するという、
「強い意志」があったわけでもなく、
「自分にとって善い場所」が、
その「疑似家族」としての「社会集団」であり、
この社会集団には、
ある種「偶然的な必然性」があったのです。

そしてある種、
その様な「偶然的な必然性」により、
「自然発生的」に出来上がった、
「社会集団」を母体としてストーリーは進みます。

ここで重要なポイントが、
その「社会集団内」の「善」と、
その「社会集団外」の「善」は、
二律背反している事です。

それがこの映画のキーポイントである。
「万引き」というものです。

これは現在の日本のあらゆる、
「社会集団」に観られる現象です。

企業、宗教、コミュニティ、家族、友人。

この辺が私の人生と非常にオーバーラップし、
つい泣いてしまいましたwww

 

人間というのは、
「居心地が良い所」に居たいと思うものです。

しかし私は常に、
その「居心地が良い所」から、
自ら離脱していくという、
ある種孤独な選択をしてきました。

その意味で、
客観的に見ると、
「勝手な人間」だと思われています。

しかし人間の成長やさらなるレベルアップを考えると、
その様な「居心地が良い所」にいることは、
私にとってネガティブであるのです。

私は他人に嫌われようが、
排除されようが、
村八分にされようが、

自分の考えを、
自分の口で発言します。

それもまた自分で自分の首を絞める様なこと、
それを十分に理解しながら、
自分の「居心地が悪い所」へと離脱します。

つまりここで何が言いたいのかというと、
「社会集団」というのは、
絶対的にその集団内だけの「善」というものを、
「生成」するという「性質」があるのです。

そしてそれは、
アプリオリなものとして、
その「善」は「作動」し、
その「善」を誰も疑わなくなる。
そしてその「善」は、
その「社会集団外」との「善」と、
「二律背反」を起こし、
その「社会集団の構成員」は、
「社会集団」の「善」を優先するのです。

これが顕著に現れたのが、

「オウム真理教地下鉄サリン事件」、
「東芝の粉飾決算事件」、

以上の様な事件です。

 

この「映画 万引き家族」では、
「疑似家族」となった「社会集団」での、
「万引き」という「善」が、
「社会集団外」の「善」と、
二律背反を起こしています。
しかしそういった「社会集団」の中にも、
その「社会集団内」の「善」を疑う人間も、
産まれてくるのです。 そしてその様なものたちは、

「社会集団内」の「善」と、
「社会集団外」の「善」の間で、
ディレンマを起こし葛藤し悩むのです。
「社会集団内」の「善」を裏切り、
「社会集団外」の「善」を優先する。
そういう判断をすれば、
それまで居心地の良かった、
「社会集団」が「崩壊」してしまう。

こういった二律背反に悩まされるのです。

 

「映画 万引き家族」では、
最後に少年は、
「社会集団内」の「善」を裏切り、
「社会集団外」の「善」を選択することになります。

そして、
「疑似家族」として、
「居心地のいい所」の「社会集団」は、
「崩壊」することになります。

つまり「社会集団」は、
いわゆる日本の典型的な「ムラ」となるわけです。

そこには「中央集権的」な、
「強力な同調圧力」が生じます。
それは「社会集団」を、
ある種「一つの方向」へと導くには、
非常に強力な「システム」だと言えます。

 

しかし現在この様な「システム」の限界を迎え、
ある種「多様」で「カオス」な、
「分散型」の「システム」が、
どんどんと採用されてきています。

つまり「中央集権型」ではなく「分散型」、

「個を抹消した集団」ではなく、
「自立した個の集まりとしての集団」、

その様な時代なのです。

 

その様な前提で、
中ザワヒデキの人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)、
に物申すのです。

中ザワヒデキの人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)は、

中ザワヒデキという人間を中央にした、
中央集権的な「社会集団」という、
前時代的な「社会集団」であり、
その様な「社会集団」が、

最先端の「人工知能」などを、
「中央主権的」に「議論」や「研究」しても無意味である。

その様に物申したいわけです。

確かに私は「口が悪い」ということもありますが、
その様な「異質性」こそが、
これからの時代の「社会集団」にとって重要であり、
その様な存在の「私」、
「美学者母」を強制排除した、
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)は、

致命的なミスを犯したのです。

私は人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)が、
今後変わることを望みます。
「多様な人間」「多様な価値観」「多様な性質」、

その様な、
「多元的でカオス」な場になる事を願います。

今回は、
「映画 万引き家族」と、
最近の出来事などを交えながら、
色々と言説しましたが、

 

この様な私を応援してくださる方に感謝しております。

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

 

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