「意識」とはなんだろうか?
「心」とはなんだろうか?
それはすべての人が語れ、
そしてすべての人が理解でき、
そしてそれは記述できるものなのだろうか?
はて?
科学や哲学は世界の全てを記述できるのだろうか?
私たち人間は身をもって知っているはずで、
科学や哲学では記述不可能なものがあると。
私たちが日々過ごしているこの日常さえ、
私たちが日々体験しているこの日常を、
記述することさえできない。
体験とは絶対的に再現不可能かつ記述不可能である。
つまりそれは刹那的体験である。
その絶対的体験、
刹那的体験。
「全体が私であり、私が全体である。」
ある種その様な体験、
しかし体験を記述した時点で、
それはもう体験ではなくなる。
釈迦は何を悟ったのだろうか?
「空」や「縁起」とは一体なんなのか?
私は20歳で悟りました。
釈迦は教えを説いているのではないのです。
曼荼羅やお経は、
悟りの概念化なのです。
ですから、
そもそも「意識」というものは、
記述不可能なものです。
なぜなら「意識」とは体験です。
それを概念化する、
イメージや言語化する、
それを可能だとすることは、
人間としての未熟さです。
まずそういったことを、
大きな顔をしていっている人は、
「悟り」や「縁起」「空」、
その様な、
「絶対的体験」を、
そもそも体験していないのです。
私は以前から言説していますが、
例えば私が考え言説する「心」や「意識」、
それらは仏教的に言えば、
「曼荼羅」や「お経」です。
そもそも、
「悟り」や「縁起」、「空」、
それらの体験をしていない人間が、
「心」や「意識」について、
いくら議論しても、
私から観れば無意味なのです。
この様な話は、
「非科学的」とか「オカルト」と、
一見見られがちですが、
それは絶対的な間違いです。
なぜなら、
あなたは「今」を体験している。
それは誰も疑いようのない「真理」です。
余談な話をすれば、
大抵最先端の哲学や科学は、
LSDなどドラッグに支えられています。
それは手っ取り早い、
「絶対的体験」を、
体験させてくれるからです。
この様な事は、
なかなか表立って話は出てきませんwww
理由は明らかですが、
「絶対的体験」をしている人間と、
「絶対的体験」をしていない人間で、
次元が違うのです。
「絶対的体験」をしていない人間が、
いくら「心」や「意識」を議論したり、
それを考察、研究しても、
それは「絶対的」に、
到達しえない領域があるわけです。
美学者母