「アーティストは馬鹿だ!!!」
これを感じたのは、
私が現代アートを始めた頃、
今から20年以上前の事だ。
その頃から考えると、
今は少しだけ、
「アーティストのあり方」は、
変わってきたのかもしれない。
しかしそれから、
様々なアーティストと直接的間接的に、
話やその人の思考を聞いてみても、
頭のいいアーティストに出会った事がない。
少し頭のいいアーティストはいるが、
本当に数える程度で、
99パーセントは「アホ」だ。
「アート業界」で、
何か気の利いた話をするのは、
「批評家」や「評論家」で、
それらは「気の利いた」言説をするのであって、
これまた「頭がいい」わけではない、
それなりに学歴があるので、
アーティストよりは、
少しはマシな様に社会では認知されている。
どちらにしろ、
「頭がわるい」のである。
アーティストだから、
アート作品だけ創ってるアホ。
アートの批評家、評論家だから、
アートの批評、評論だけしているアホ。
これはアートに限った話ではないのだが、
そもそも歴史的にカテゴリされた領域だけ、
それだけを馬鹿みたいにやってるのはアホなのだ。
私が「頭がいい」と言っているのは、
そのカテゴリーをブレイクスルーする力だ。
私はこのことを「頭がいい」と言っている。
つまりこのカテゴリーの壁こそが、
養老孟司の「バカの壁」そのものである。
私はアート活動をしているわけだが、
既存のアートから文脈的に考えれば、
私がアーティストと名乗っている事自体、
「おかしな話」なのである。
なぜならインターネットで文章を書く、
その様な一般的にはアートとみなされない事、
それをアートだと言ってるわけで、
まぁただの理解できない対象にすぎない、
もっというと、
私という存在すら見えていない、
つまりスコトーマの状態である。
その人にとってみれば、
印象派やキュビズムがアートで、
抽象画やポップアートがアートである。
しかしそれはアートのクラシックなのであって、
アートそのものは、
カテゴリーをブレイクスルーしていく事こそ、
アートなのだと考えている。
つまりアートとは、
「アートではあってはならない」のである。
同時代的にアートが評価される、
これこそが私から言わせれば異常である。
ある意味、
「アートのまがい物」である。
すなわち、
現代美術、現代アートの時代というのは、
その「アートのまがい物」すらも、
アートに取り込もうとする運動であり、
現在はアートのまがい物の時代なのである。
一人のアーティストとして、
この現状を考えるに、
現在アーティストは、
色々な意味で「消費の対象」でしか、
ないのである。
この様な状態は、
アーティストが馬鹿でアホだから、
資本や経済に完全に取り込まれた末である。
結局アートも「資本」に媚びてしまったのだ。
これからのアーティストは、
もっと知性的でなければならない、
つまり「頭のいい」人間でなければ、
カテゴリを逸脱する事が不可能な時代なのだ。
それは既存のカテゴリに埋没する事が、
馬鹿でアホであると気づく事が必要である。
例えば「お金」一つとってみても、
近いうちに「お金」の概念は変わる。
つまり「価値」という概念が変わる。
すれば「社会」という概念が変わる。
「お金」というカテゴリーをとっても、
私たちはそのカテゴリに埋没し、
決して「お金」の「価値」を疑わない。
だからこそ「現代美術」「現代アート」は成立する。
こんな簡単なレトリックさえ、
実際作品を創っているアーティストは、
理解していないのである。
つまり私たちアーティストは、
まず世界を知らなければならないし、
その世界に無数に存在する、
あらゆるカテゴリーを知らなければならない。
そしてそのカテゴリーの壁は、
常に更新されていて、
破壊と再生を繰り返し、
ある種のアポトーシスとして、
「動的平衡」として、
私たちは刹那を体験しているのである。
つまりアーティストは、
科学、経済、宗教、政治、哲学、経営等。
あらゆる幅広い知識を有しなければならないし、
自らそのカテゴリーを体験しなければならない。
その上でやっとブレイクスルーを起こせるのである。
なぜなら現在の世界は、
非常に複雑で、
非常に抽象度の低い世界なのであるから、
クラシックが産まれた時代、
つまり抽象度が高かった時代とは、
私たちアーティストのスタンスも、
全く変わっているのである。
特に現在においても、
芸大美大でクラシックな芸術や美術を学ぶ、
それはただ単なる時間の無駄なのである。
若い人にはそれに早く気づいて欲しいし、
私はその様な知性を育む場として、
狭山美学校という私塾を創った。
私のこの言説を読解できるレベルの知性は、
最低限必要とするが、
志高い若人を歓迎する。
狭山美学校
https://www.machromatic.biz
美学者母