今日もまた、
私の目の前を、
「ありがとう」、
「素晴らしい」、
「良かった」、
というなんの気持ちもない言葉が、
軽快に、当たり障りなく、
過ぎ去っていくのである。
私はアート活動をしているので
、
例えばフェイスブックなどでは、
芸術や文化などの情報が多く流れてくる。
しかしそこで行われているコミュニケーションは、
「ありがとう」、
「素晴らしい」、
「良かった」、
定型文で十分な言葉で、
埋め尽くされている。
身内や知り合いの中で、
当たり障りない褒め言葉をやりとりし、
やりとりにはなんの意味もない、
ただ単なる社交辞令を繰り返している。
貴方にとって本当に必要な言葉とは、
一体なんだろうか???
この世界というのは、
そもそもそんな甘っちょろい所なのか???
まぁよくよく考えてみると、
身内で当たり障りのない褒め言葉に、
違和感を抱かない人間は、
その程度の人間なのだろうがだ。
常にアップグレードしようとしている人間にとって、
賞賛の声ほど無意味なものはないのである。
それはただ単に、
脳の快楽物質を一時感じる位で、
それは「気持ちいい」のかもしれないがだ。
どの世界でもそうなのだが、
「批判」の言葉こそ、
常にアップグレードを試みる人間にとって、
「意味」を持つものはない。
「批判」され、
「反省」し、
それを「フィードバック」して、
「工夫」し、
「改善」する。
この様なフィードバックループを繰り返し、
アップグレードのベースとするわけです。
日本っていうのは、
特に芸術に対しての、
「批判的精神」というものが無い。
「芸術」というだけで、
「批判」することが「タブー」になっている。
「良い」ことだけ言って、
「悪い」ことは言わない。
それはアイデンティティを傷つけるから?
むしろ芸術家にとって、
「批判」されない方が、
危機的な状態だと考える。
日本では通常芸術において議論が起こらない、
それは「批判」が無いからだ。
むしろ世俗的に倫理観を逸脱したものには、
異常なまでの誹謗中傷が巻き起こる。
私は日本でも常日頃から、
芸術に対しての議論が、
高レベルな領域においてなされるべきであるし、
それを促進していきたい。
直近でもヤノベケンジの、
《サン・チャイルド》という作品が、
問題になったが、
世俗的な低レベルな議論を受け入れた、
ヤノベケンジにも疑問を感じる。
日本人はそもそも、
常日頃から芸術の批判的議論さえしないのに、
少しの倫理的問題を炎上させて追放する。
それに負けたヤノベケンジが
芸術家として一番問題である。
もしかすると、
私たち日本人は、
「批判」されることに、
全く耐性を保持していないのかもしれない。
それは日本人は「芸術」を、
「芸術」と聞いただけで、
それは「素晴らしい」のだ、
という思い込み、
というか「洗脳」されているからだ。
日本人にとって、
「芸術=神」なのかもしれない、
「触らぬ神に祟りなし」なのだ。
これは日本文化と言っても過言ではないが、
「芸術」を「批判」する、あるいは「議論」する、
ということは、
ある意味、
「神」を「批判」する、あるいは「議論」する、
のと同じ様に、
不敬なことなのである。
少なくともアートの本場である、
欧米では、
アートを議論することは、
アートにとって必須の条件でもあり、
またそれはアートのエレメントでもある。
しかしこの様な「批判的精神」は、
アートに限らず、
あらゆることに言える、
日本人はあらゆることの「議論」をしない。
日本人において、
「議論を嗜む」という「文化」が無く、
あくまで「ダメダシ」というのは、
「格」が違う人間がするものだと、
思い込んでいるのである。
これはある種「民主主義」の根幹とも繋がり、
日本においての大きな問題であると考えています。
美学者母