皆さまどもっ!!!
季節はすっかり秋になりましたが、
この季節になると、
なんとなく寂しい気持ちになって、
周りを見渡すと、
カップルや家族が楽しくしていて、
さらに寂しさが増しますwww
この様に人間というのは、
自分よりも周りの方が、
幸せそうに見えてしまう、
上手くいっている様に見えてしまう、
その様な側面を持っているわけです。
しかし実のところ、
幸せそうに見えるあのカップル、
順調そうに見えるあの家族、
その様なすべての人にも、
あなたが抱く様な、
劣等感や敗北感の様なものを、
抱えて生きているわけです。
そうやって世の中を見渡しますと、
「助け合い」というのは、
一つの大きなキーワードなのかもしれません。
しかしよく勘違いされやすいのですが、
「助け合い」と「馴れ合い」は、
全く違うものなのです。
私が考える「助け合い」と「馴れ合い」の違いは、
「助け合い」とは、
欠損の補い合いなのです。
「馴れ合い」とは、
欠損を無い事にする合意なのです。
私はその様な点からも、
「馴れ合い」は大嫌いで、
私がこの様に文章で誰かを批判する、
その様な活動は、
「助け合い」の一環であると認識しています。
それは批判とは、
欠損を浮き彫りにするという役割があるからです。
しかし物理世界やローコンテクストの世界では、
「馴れ合い」ばかりが、
「助け合い」と言いながら行われています。
それは物理的世界などは、
「実益」との結びつきが明確だからなのです。
実社会で「助け合い」と言いながら、
「利益」を囲い込み、
「既得権益」を貪りつくクソな人間が、
たくさんいますが、
それはただの「馴れ合い」なのです。
「助け合い」というのは、
欠損を補い合い、
Win-Winの関係が成立していなければなりません、
その上でハイコンテクストな「助け合い」というのは、
「実益」との結びつきが薄い分、
「助け合い」のポテンシャルが大きいと考えています。
具体的に私がここで言っている「助け合い」とは、
どんなものかというと、
それは、
「クリエイティブにおける救いの互助」なのです。
私がこの様なクリエイティブの世界へ入ろう、
そう決意させてくれたのは、
ロドニー・ミューレンというスケートボーダーです。
私は彼のスケートボードのクリエイティビティに感動し、
その頃の私を救ってくれました。
そしてその様な救いを、
私もこの世の中の一人でもいいから、
救える様になりたいと、
クリエイティブの世界へ入ったわけです。
そして今日も、
あるラッパーの作品を聴いて、
今まさにそのクリエイティビティに救われました、
その体験から、
今この文章を書こうと思い、
実際に書いているわけです。
芸術というものは、
この様な「救いの連鎖」「救いの互助」、
なのだと考えています。
私もこの様に、
文章を書き自分の作品を発信していますが、
その中で一人でも誰かの「救い」になれば、
それ以上の事はないのです。
そしてこうやって自分の作品を発信している私もまた、
誰かの作品に救われているわけです。
この様な循環こそ、
「クリエイティブにおける救いの互助」なわけです。
しかし芸術というものは、
「諸刃の剣」なのです。
その作品で一人が救われても、
後の九十九人を傷つけてしまう、
その様なものなわけです。
しかし私はそれでいいと思っていますし、
実際私の文章はその様な傾向が強いでしょう。
では後の九十九人はどうすればいいの?
と思われるでしょうが、
それはそれぞれを救ってくれる芸術が、
絶対にあるはずです。
そもそも、
全ての人々を救ってくれる芸術など、
あり得ないのです。
現代において「芸術」というものが、
力を失っていると言われています。
それは資本主義社会の評価の尺度が、
明確な「資本」という数字になってしまい、
どれだけ「消費」されるか、
というものが「芸術」の「力」とされているからです。
しかし私は知っているのです。
「芸術」の「力」というものが、
私たちの「救い」にある事を、
そしてそれは「資本主義社会」の「実益」、
つまり「資本」という「数字」には現れない事を、
そして皆様も知っているはずです。
貴方が救われた、
「音楽」「映画」「舞台」「映像」「美術」、
私も沢山の「芸術」に救われてきました。
本当に「評価」されるべき「芸術」、
本当に「価値」ある「芸術」、
本当に「力」ある「芸術」、
それは「あなたの心が知っている」のです。
美学者母