No.294

ネクタイを締める意味さえ疑わないで、
毎朝当たり前にネクタイを締めて会社に行く、
そんな貴方の人生に
そもそも意味なんてあるのだろうか?

text : mama(美学者母)
2018年11月8日(木曜日
)執筆

 

そもそも私達は人生において、
考えるべき順番を間違ってしまっているのでは、
ないだろうか?

哲学者の池田晶子が言っていたことが、
いつまでも私の脳裏に焼き付いているわけです。

人間、
「人生をどう生きようか」と悩む前に、
「なぜ生きているのか」を考えなければならない。

その言葉は今でも忘れられない、
なぜならばその言葉は、
私に対してあらゆる事に反省を促すのです。

そもそも私の人生、
そして貴方の人生において、
その「人生」に「意味」を与えているのは、
誰でしょうか?

それは「私自身」、
「貴方自身」なのです。

「意味」は与えられているように感じるが、
実は貴方が「意味」を与えているのです。

それは貴方や私の意識が、
「我」にしかない事からも理解できます。

「私」の「意識」が無くなった時、
「我」が「死」んだ時、
全ての「意味」は無くなるのです。

そう言ったことからも、
人間にとって「意味」とは、
「私にとっての意味」の中にしか、
「意味」は存在しないのです。

ですから「意味」とは、
「私にとっての意味」と同義なのです。

私達は「意味」とは、
「全ての人間」にとって「共有しているもの」、
と思い込んでいるわけですが、
「意味」とは、
「私にとっての意味」であり、
それは「貴方自身」が、
「主体的に与えているもの」なのです。

 

私達現代の人間は、
「意味の思考」のほとんどを放棄しているのです。

それはある種「盲目的」と言っていいでしょう。

貴方は、
貴方が人生で見聞きした「意味」を、
そのまま「私にとっての意味」として、
貴方自身が「意味を与えている」のです。

「意味」は、
「貴方自身」が「与えている」のであって、
「他人」に「与えられている」ものではありません。

そもそも私達は、
「意味は与えられるもの」として生きています。

だからこそ、
「意味そのものを疑う」という行為、
それは「思考」ですが、
それをそもそも放棄してしまうわけです。

私達「人間」は、
「意味」そのものを、
「与えること」ができる「主体」なのです。

そう言った事をそもそも忘れてしまっている、
だからこそ「思考停止」し、
「盲目的」になるわけですが、
「人間」は「意味を与える」存在である、
その様な認識に立てば、
自ずと「意味を与える」、
原理的な「思考」を、
ある種「ホメオスタシス」として行うのです。

 

そしてここで「人間らしさ」というものを思考します。
「人間らしさ」とは一体なんでしょうか?
それは「意味を与える事」です。

そして、
その「意味を疑う事」です。

人間はこの創造と破壊の反復を行う、
それが「生きる」という事なのです。

現代の人間は、
この両方を放棄しているのです。

「意味は与えられ」、
「意味を疑わない」、
これはまさに「人間では無い」のです。

つまり、
「人間には意味」がありますが、
「人間では無い」のであれば、
それは「意味が無い」のです。

現代の人間というのは、
「意味の無い世界」を生きているのです。

少なくとも「人間」として「生きる」のであれば、
「現代の人間」というものを、
「反省」しなければなりません。

 

 

 

 

美学者母

 

 

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