そもそも私達は人生において、
考えるべき順番を間違ってしまっているのでは、
ないだろうか?
哲学者の池田晶子が言っていたことが、
いつまでも私の脳裏に焼き付いているわけです。
人間、
「人生をどう生きようか」と悩む前に、
「なぜ生きているのか」を考えなければならない。
その言葉は今でも忘れられない、
なぜならばその言葉は、
私に対してあらゆる事に反省を促すのです。
そもそも私の人生、
そして貴方の人生において、
その「人生」に「意味」を与えているのは、
誰でしょうか?
それは「私自身」、
「貴方自身」なのです。
「意味」は与えられているように感じるが、
実は貴方が「意味」を与えているのです。
それは貴方や私の意識が、
「我」にしかない事からも理解できます。
「私」の「意識」が無くなった時、
「我」が「死」んだ時、
全ての「意味」は無くなるのです。
そう言ったことからも、
人間にとって「意味」とは、
「私にとっての意味」の中にしか、
「意味」は存在しないのです。
ですから「意味」とは、
「私にとっての意味」と同義なのです。
私達は「意味」とは、
「全ての人間」にとって「共有しているもの」、
と思い込んでいるわけですが、
「意味」とは、
「私にとっての意味」であり、
それは「貴方自身」が、
「主体的に与えているもの」なのです。
私達現代の人間は、
「意味の思考」のほとんどを放棄しているのです。
それはある種「盲目的」と言っていいでしょう。
貴方は、
貴方が人生で見聞きした「意味」を、
そのまま「私にとっての意味」として、
貴方自身が「意味を与えている」のです。
「意味」は、
「貴方自身」が「与えている」のであって、
「他人」に「与えられている」ものではありません。
そもそも私達は、
「意味は与えられるもの」として生きています。
だからこそ、
「意味そのものを疑う」という行為、
それは「思考」ですが、
それをそもそも放棄してしまうわけです。
私達「人間」は、
「意味」そのものを、
「与えること」ができる「主体」なのです。
そう言った事をそもそも忘れてしまっている、
だからこそ「思考停止」し、
「盲目的」になるわけですが、
「人間」は「意味を与える」存在である、
その様な認識に立てば、
自ずと「意味を与える」、
原理的な「思考」を、
ある種「ホメオスタシス」として行うのです。
そしてここで「人間らしさ」というものを思考します。
「人間らしさ」とは一体なんでしょうか?
それは「意味を与える事」です。
そして、
その「意味を疑う事」です。
人間はこの創造と破壊の反復を行う、
それが「生きる」という事なのです。
現代の人間は、
この両方を放棄しているのです。
「意味は与えられ」、
「意味を疑わない」、
これはまさに「人間では無い」のです。
つまり、
「人間には意味」がありますが、
「人間では無い」のであれば、
それは「意味が無い」のです。
現代の人間というのは、
「意味の無い世界」を生きているのです。
少なくとも「人間」として「生きる」のであれば、
「現代の人間」というものを、
「反省」しなければなりません。
美学者母