研究

即・生活即芸術

Soku and Life-as-Art

異なるものが差異を保持したまま接触し、生活と芸術の境界が現在において生成され直す条件を研究する領域

概要

即・生活即芸術は、「即」を単純な同一性や等号としてではなく、異なるものが差異を保持したまま接触し、その接触から新しい関係が生成される状態として研究する領域である。即、座、即座、即興、生活即芸術を通して、現在を過去と未来が接触する生成界面として捉え、生活と芸術、自己と世界、形式と行為の境界がどのように可動化されるのかを研究する。

本文

即・生活即芸術は、生成学において、異なるものが差異を失うことなく接触し、その接触から新しい関係が生成される条件を研究する領域である。

この研究の中心にあるのが「即」である。

日本語における「即」は、しばしば「A即B」という形で用いられる。

しかし生成学では、即を単純な等号として理解しない。

A即Bとは、AとBが完全に同一であることを意味しない。

もしAとBが完全に同一であるなら、そこに関係は必要ない。

差異が存在するからこそ、「即」という接触が意味を持つ。

したがって即とは、差異を消去する同一化ではなく、差異を保持したまま関係が成立する状態である。

この点で即は、生成の位相存在論における位相差と深く関係する。

異なる位相は同一のものへ還元される必要はない。

異なるまま接触することで、第三の関係が生成される。

即は、その接触の瞬間と構造を表す概念として研究することができる。

即は静的な同一性ではない。

それは出来事である。

AとBが接触し、その関係が成立する現在において生起する。

したがって即には時間が含まれている。

即は、すでに完成した二つのものを論理的に結ぶだけではない。

接触によって関係そのものが生成される。

このため、即は現在と深く関係する。

現在は単なる時間軸上の一点ではない。

過去の履歴と、まだ実現していない未来の可能性が接触する生成界面である。

過去は現在の条件を形成する。

しかし未来は過去の単純な延長として完全に決定されない。

現在では、過去から受け取った条件と未来の未生成可能性が接触する。

その接触によって、新しい行為、新しい判断、新しい関係が生まれる。

この意味で現在そのものが「即」の場である。

即の研究は「座」の研究へ接続する。

座とは、単なる物理的な席ではない。

何かが置かれ、関係が成立する具体的な位置や場を意味する。

存在は抽象的な真空のなかで生成されるのではない。

身体、場所、時間、他者、制度、環境など、何らかの座において生成される。

したがって座とは、生成の具体的条件である。

同じ行為でも、座が変われば意味が変わる。

同じ物でも、美術館に置かれる場合と生活空間に置かれる場合では、関係構造が異なる。

同じ言葉でも、誰がどこで誰に語るかによって意味が変わる。

そのため、存在や意味は座と切り離せない。

「即座」は、即と座が結びついた概念として研究することができる。

一般語として即座は「すぐに」という意味を持つ。

しかし生成学では、それ以上の構造を読み取る。

即座とは、現在の座において、差異のある条件が接触し、その場で関係が生成されることである。

あらかじめ完全に決められた答えを適用するだけではない。

現在の場所、身体、他者、環境に応じて、その場で関係を生成する。

この意味で即座は即興へ接続する。

即興とは、準備がないことではない。

何も持たずに無から行為することでもない。

過去に身体化された型、経験、記憶、技術を引き受けながら、現在の状況に応答することである。

そのため型と即興は対立しない。

型が身体化され、現在の座と接触したとき、即興が可能になる。

完成した型を機械的に反復するのではなく、その場の条件に応じて型を変形する。

そこに生成がある。

即興は、自己以前性とも関係する。

人間はすべての行為を言語的に決定してから動くわけではない。

身体は先に反応することがある。

音、視線、空間、他者の動き、気配に対して、意識的な説明より先に身体が応答する。

この自己以前の感覚的判断が、即興を支えている。

したがって即興は、完成した自己が外部へ行為を出力することではない。

自己と環境が接触するなかで、行為と自己が同時に生成される。

ここで「生活即芸術」の問題が現れる。

生活即芸術は、生活と芸術を同一化する命題ではない。

「生活=芸術」という単純な等式ではない。

生活と芸術が完全に同じものになるなら、その二つを区別して関係させる必要もなくなる。

生活即芸術とは、生活と芸術が差異を保持しながら接触し、その境界が可動化される状態を意味する。

生活は生活であり、芸術は芸術である。

しかし両者は完全に分離されてもいない。

生活のなかから作品が生成される。

芸術実践によって生活の見え方が変化する。

作品が生活へ入り、生活の関係構造を変える。

生活が作品の条件を変える。

この循環が生活即芸術である。

この考え方は、芸術を特別な領域へ隔離しない。

しかし同時に、すべてが芸術であるとも言わない。

もしすべてが無条件に芸術であるなら、「芸術」という概念は差異を失う。

生成学では、何かが芸術として働く条件を研究する。

その条件の一つが、日常の接続構造を変化させることである。

普段は見えなかったものが見える。

当たり前だった関係に違和感が生じる。

自分の生活を別の位置から感じる。

他者との関係が変化する。

このような接続の変化が生じるとき、生活のなかに作品性が生じうる。

したがって生活即芸術は、生活を作品化することだけを意味しない。

生活そのものの生成条件へ芸術的な介入を行うことである。

この点で、生活即芸術はインターフェイス存在論と深く関係する。

生活と芸術が接触する境界がインターフェイスとなる。

その境界が固定されていれば、生活は生活、芸術は芸術として別々の制度に閉じる。

境界が可動化されると、両者の関係が変化する。

民宿狭山美学校は、その具体的な実践例である。

民宿狭山美学校では、宿泊、生活、建築、作品、地域、来訪者、作者が同じ現実空間に存在する。

そこでは作品だけを切り離して鑑賞することが難しい。

食事、睡眠、会話、移動、滞在といった生活行為と芸術実践が接触する。

しかし民宿が完全に美術館になるわけではない。

生活が完全に作品になるわけでもない。

民宿でありながら美学校であり、生活の場所でありながら芸術実践の場所でもある。

この「でありながら」が重要である。

二つの位相が一つへ還元されず、差異を保持したまま同時に成立する。

そこに即の構造がある。

この構造は「現実ディスプレイ」という考え方にもつながる。

一般的なディスプレイは、現実の外側に情報を表示する画面として考えられる。

しかし民宿狭山美学校では、生活している現実そのものが表示面となる。

作品と現実を分離して見せるのではなく、両者の接触そのものを経験させる。

鑑賞者は外部から見るだけではない。

滞在し、歩き、話し、食べ、眠る。

身体を通して現実との関係に参加する。

このとき芸術は、対象として見るものから、現実を感じ直すインターフェイスへ変化する。

生活即芸術は、近代的な作品制度への批判とも関係する。

近代美術では、作品、作者、鑑賞者、展示空間がそれぞれ分離される傾向がある。

作品は展示され、鑑賞者は見る。

作者は制作し、制度は評価する。

生成学は、この分離そのものを問い直す。

制作すること、見ること、評価すること、生活することは、完全に別々の位相なのか。

それとも一つの生成過程の異なる位置なのか。

生活即芸術の研究では、これらを離散した役割としてだけでなく、同じ生成場における関係として捉える。

この問題は共存在ともつながる。

生活は単独では成立しない。

他者、家、道具、地域、制度、環境、記憶との関係のなかで生成される。

芸術も同様である。

作品は作者だけでは成立しない。

鑑賞者、場所、制度、歴史、言語との関係によって作品性が成立する。

したがって生活即芸術とは、自己表現の極端な拡張ではない。

複数の存在が共に在る生成場を芸術として研究することである。

この観点から見ると、芸術家は世界を支配する作者ではなくなる。

芸術家は、生成条件へ介入する一つの存在となる。

作品を完全に決定するのではなく、何かが生じうる条件を作る。

接続を変える。

座を作る。

余白を残す。

そこで他者や環境が関与し、予測できない生成が起こる。

この余白は重要である。

すべてが作者によって決定されているなら、他者が生成へ参加する余地は少ない。

非閉鎖性があるからこそ、新しい関係が生じる。

この点で生活即芸術は、無名性とも接続する。

芸術が生活へ入り、他者によって使われ、経験され、変形されるとき、作品は作者の意図だけに閉じなくなる。

誰が作ったかという問題は残る。

しかし作品の意味や作用は作者だけでは決定できない。

他者の生活のなかで新しい意味が生成される。

そのとき作品は、作者から一定の距離を持ち始める。

ここに無名性への移行がある。

即の研究は、空の問題とも関係する。

空を単なる無として考えるのではなく、固定された自性を持たないこととして捉えるなら、存在は関係によってその都度成立する。

この構造は生成の位相存在論と接続する。

存在が完全に固定された実体ではないからこそ、新しい接続が可能になる。

しかし空だけでは、具体的な現実の生成を十分には説明できない。

そこで即が重要になる。

即は、固定的な実体が無いということを、具体的な接触へ移す。

異なるものがここで接触する。

関係が成立する。

形が現れる。

位置が生まれる。

この動きは、空、即、相、是、位という連鎖として研究することもできる。

空は固定的実体の非自立性を示す。

即は差異のあるものの接触を示す。

相は、その接触によって現れる具体的な形や様相を示す。

是は、それが現実として「これである」と肯定される局面を示す。

位は、その生成されたものが関係構造のなかで占める位置を示す。

しかし位も最終的に固定されない。

新しい関係によって再び変化する。

したがってこの連鎖は閉じない。

無名性へ開かれ、文化生成へつながる。

この構造は、生成学における日本思想研究の一つの方向を示す。

重要なのは、仏教思想や日本文化を完成した答えとして借用することではない。

そこに存在する語や実践を、生成という問題から再読することである。

即、座、型、道、余白、無名性などは、現代の生成条件を研究するための概念として再構成できる。

「即」の重要性は、近代的な二項対立を単純に解消しないことにある。

主体と対象。

自己と他者。

自然と文化。

生活と芸術。

人間と技術。

個別と普遍。

これらを一方へ統合するのではない。

対立したまま固定するのでもない。

差異を保持しながら、どのように接触しうるかを研究する。

この接触が生成を生む。

したがって即は、折衷でも中間でもない。

AとBの中間地点を探すのではない。

AとBが異なるまま接触することで、新しいCが成立する。

この三項生成の構造が即に含まれている。

生活即芸術も同じである。

生活と芸術の中間を作ることではない。

生活と芸術を混ぜて曖昧にすることでもない。

生活と芸術が差異を保持したまま接触し、その接触によって、それ以前にはなかった現実を生成する。

この現実は一時的である場合もある。

一度だけの出会い、一晩の滞在、短い会話、一つの行為から生まれることもある。

しかし短い出来事であっても、その出来事が履歴として残れば、完全に出来事以前へ戻ることはできない。

即には不可逆性がある。

瞬間的であることと、履歴を持たないことは同じではない。

一瞬の出来事が、その後の人生を変えることもある。

この意味で、即は瞬間と履歴を結ぶ。

即興も瞬間的だが、過去の身体化された履歴を含み、未来へ新しい履歴を残す。

現在は一瞬でありながら、過去と未来を接続する。

この時間構造は、情報・時間・計算可能性の研究とも接続する。

形式的時間では、現在は一つの時点として表現される。

生成的時間では、現在は過去から未来へ関係が変化する出来事である。

即は、この生成的現在を捉える概念でもある。

生成学における即・生活即芸術の研究は、芸術を生活へ溶解するためのものではない。

また生活を美化するためのものでもない。

生活と芸術がどのように差異を保持し、その境界がどのように動き、その接触からどのような新しい現実が生まれるのかを研究する。

即とは同一性ではない。

差異を保持した関係である。

座とは、その関係が具体的に生起する場所である。

即座とは、その場所と現在において関係を生成することである。

即興とは、過去の履歴を身体に含みながら、現在の条件へ応答して未来を生成することである。

生活即芸術とは、生活と芸術の境界を消すことではなく、その境界を生成可能なインターフェイスへ変えることである。

その中心にあるのは、現在である。

現在とは、すでに決まった過去でも、まだ存在しない未来でもない。

両者が接触し、差異を保持したまま新しい関係が生まれる生成界面である。

即とは、その生成界面において「いま、ここで」関係が成立する出来事なのである。

Keywords

即;生活即芸術;座;即座;即興;現在;生成界面;差異;境界;生活;芸術;無名性;生成