自己以前性
Self-Precedence
言語的・社会的に固定された自己に先行する身体感覚・方向性・情動・身振り・判断・創造可能性の理論
概要
自己以前性は、自己を最初から完成した主体として置くのではなく、「私」という自己像が言語的・社会的に安定する以前から、身体感覚、方向性、情動、身振り、違和感、惹かれ、判断の萌芽、創造可能性がすでに働いていることを理論化する。自己はこれらを完全に統御する起点ではなく、自己以前的な生成から一時的に形成される局所的状態である。しかし形成された自己も次の生成条件となるため、自己以前性は自己の否定ではなく、自己を固定的根拠から生成的インターフェイスへ位置づけ直す理論である。
本文
自己以前性は、自己をあらかじめ完成した主体として置くのではなく、社会的・言語的に安定した「私」が成立する以前から、身体感覚、方向性、情動、身振り、違和感、惹かれ、判断の萌芽、創造可能性がすでに働いていることを捉える理論である。
ここでいう「以前」とは、単なる時間的な過去を意味しない。
幼児期だけを意味するのでもない。
自己意識が発達する以前の発達段階だけを指しているのでもない。
現在の成人においても、明確な言語的判断が成立する以前から、身体はすでに何かを感じ、何かへ向かい、何かを避け、何かに惹かれている。
自己以前性とは、この構造的な先行性を意味する。
人間はしばしば、自分がまず存在し、その自己が感じ、考え、判断し、行動すると考える。
「私は考える」。
「私は感じる」。
「私は選ぶ」。
「私は作る」。
この文法では、「私」が行為の起点として置かれる。
しかし現実の経験を精密に見れば、必ずしもその順序だけではない。
何かを見た瞬間に、まだ理由を説明できないのに身体が反応することがある。
ある場所へ入った瞬間に、安心や違和感を感じる。
ある人に惹かれるが、なぜ惹かれるのかを説明できない。
制作中、意味を理解する以前に手が動く。
危険を言語化する以前に身体が避ける。
言葉になる以前に涙が出る。
このとき「私」が完全な判断を下した後で身体が動いているわけではない。
身体的な生成が、明確な自己判断に先行している。
これが自己以前性の第一の命題である。
自己以前性は、自己が存在しないという理論ではない。
自己を幻想として消去する理論でもない。
重要なのは、自己を最初の原因として絶対化しないことである。
自己は生成される。
そして一度生成された自己は、次の判断や行為の条件となる。
したがって自己は結果であると同時に、次の生成の条件でもある。
この循環によって自己は持続する。
しかしその持続は完全な同一性ではない。
昨日の自己と今日の自己は履歴によって連続している。
同時に、新しい経験によって変化している。
自己は固定された一点ではなく、生成の局所的な安定状態である。
第二の命題は、身体感覚の先行性である。
人間は身体を意識する以前から身体として世界へ存在している。
座っているとき、人間は常に椅子との接触を意識しているわけではない。
歩くとき、足のすべての運動を言語で指示しているわけではない。
誰かと話すとき、声の高さ、距離、姿勢、視線、呼吸を一つずつ論理的に決定しているわけではない。
身体は、多くの関係を明確な自己意識より先に処理している。
この身体的先行性は、自己以前性の基礎である。
身体は単なる自己の所有物ではない。
身体があるからこそ、自己という局所的な位置が成立する。
身体が世界へ開かれているからこそ、何かを感じることができる。
したがって自己以前性における身体は、自己と世界の生成的インターフェイスである。
身体感覚は情報の受信だけではない。
身体の状態を変える。
冷たさを感じれば身体が緊張する。
音を聞けば注意が移動する。
他者の接近によって距離感が変わる。
匂いによって記憶が呼び起こされる。
触覚によって感情が変化する。
このように、感覚とは自己が完成した後に受け取る付加情報ではない。
自己そのものをその瞬間ごとに形成する作用である。
第三の命題は、方向性の先行性である。
人間は世界に対して完全に中立な状態から始まるわけではない。
身体は常に何らかの方向を持つ。
見る方向。
歩く方向。
手を伸ばす方向。
避ける方向。
近づく方向。
何かへ惹かれる方向。
何かから離れる方向。
こうした方向性は、明確な言語的判断に先行することがある。
「なぜかこちらへ行きたい」。
「なぜかここにはいたくない」。
「理由は説明できないが、この作品が気になる」。
この「なぜか」は、無意味なのではない。
まだ一般抽象的な言語へ変換されていない身体的な方向性である可能性がある。
自己以前性は、この方向性を未熟な判断として切り捨てない。
むしろ、その後の自己形成を方向づける生成条件として扱う。
第四の命題は、情動の先行性である。
情動は、完成した自己が対象を評価した後に追加される反応とは限らない。
恐れは、危険を論理的に説明する以前に起こりうる。
安心も、すべての安全条件を確認してから生じるわけではない。
悲しみも、出来事の意味を完全に理解する以前に身体へ現れることがある。
惹かれも同様である。
人間は、惹かれる理由を後から説明する場合がある。
この順序は重要である。
まず感覚がある。
後から理由が作られる。
つまり言語的説明が情動の原因ではなく、すでに生じている情動を後から組織している場合がある。
ここに自己以前性が現れる。
この問題は「色気」と深く接続する。
色気は、対象の個別属性を一つずつ評価した結果だけではない。
説明する以前に惹かれてしまう。
完全に対象化する以前に関係が始まっている。
そのため色気は、自己以前的な感性の働きを考える重要な例となる。
フェティッシュとの違いもここにある。
フェティッシュは、局所的な対象や特徴へ固定される方向を持ちうる。
色気は必ずしも一つの局所へ固定されない。
全体的な関係場から生じることがある。
自己以前性は、この局所化以前の惹かれを考える。
第五の命題は、違和感の先行性である。
人間は、何が間違っているかを説明できないにもかかわらず、何かがおかしいと感じることがある。
この違和感は、論理的判断が未完成だから無価値なのではない。
むしろ、既存の言語体系や概念体系ではまだ捉えられていない差異を身体が先に感知している可能性がある。
研究も芸術制作も、しばしばこの違和感から始まる。
「何か違う」。
「この説明では足りない」。
「なぜこのように分類されているのか」。
まだ答えはない。
しかし問いが生まれ始めている。
自己以前性から見れば、この状態は知識の不足ではなく、生成の入口である。
既存概念がまだ捉えていない差を身体が感じている。
その差が後に問いとなる。
問いが言語化される。
理論が形成される。
したがって知的生成も、必ずしも明確な論理命題から始まるわけではない。
感覚的な違和感が理論の先行条件となることがある。
第六の命題は、判断以前の判断である。
ここでいう判断以前とは、完全に無判断という意味ではない。
身体や感性がすでに何らかの差を区別している状態である。
快か不快か。
近づくか離れるか。
続けるか止めるか。
見るか逸らすか。
触れるか避けるか。
これらは高度な概念判断より前に生じる場合がある。
したがって判断には複数の位相がある。
一般抽象的な判断。
言語的な判断。
制度的な判断。
身体的な判断。
感性的な判断。
これらをすべて同じ位相へ還元すると、身体的な知性が見えなくなる。
自己以前性は、言語判断以前の差異化作用を認める。
これは反理性ではない。
理性が成立する以前から働いている条件を認めることである。
第七の命題は、身振りの先行性である。
人間の行為は、すべて明確な計画から始まるわけではない。
手を動かす。
身体を傾ける。
線を引く。
音を出す。
歩く。
立ち止まる。
見る。
触れる。
こうした身振りのなかで、後から意味が生じることがある。
芸術制作では特に明確である。
最初から完成作品の意味を持って制作する場合だけではない。
手が先に動く。
形が現れる。
その形を見る。
次の動きが決まる。
制作物が作者へ情報を返す。
作者が応答する。
この循環によって作品が生成する。
つまり身振りは、完成した自己の命令を実行するだけではない。
自己を形成する。
この構造は自己外部化へ直接つながる。
自己以前的な身振りが外部へ痕跡を残す。
その痕跡を見ることで、自己が自分の方向を知る。
外部化されたものが自己へ戻る。
自己が再生成される。
第八の命題は、創造性の自己以前性である。
創造性を、完成した作者が新しいアイデアを意識的に発明する能力だけとして捉えると、制作の重要な部分が失われる。
創作には、作者自身がまだ理解していないものが含まれる。
何を作っているのか完全には分からない。
なぜこの方向へ進むのか説明できない。
しかし制作を続ける。
結果が現れる。
その結果を見て初めて、何をしようとしていたのかが分かる。
ここでは、創造性が明確な自己意識に先行している。
自己以前性は、この生成を重視する。
創造とは「既知の自己が未知の作品を支配すること」ではない。
未知の自己も制作のなかから現れる。
作品を作ることで作者自身が生成される。
この意味で創造性は自己外部化であると同時に、自己以前性の外部化でもある。
第九の命題は、逆問題としての自己である。
人間は、自分の感情や行動の原因を常に事前に理解しているわけではない。
なぜこの作品を作ったのか。
なぜこの言葉を書いたのか。
なぜこの場所を選んだのか。
なぜこの人へ惹かれたのか。
結果が先に存在し、その結果から生成条件を遡って理解することがある。
これは逆問題的構造である。
自己は自分の原因を完全には所有していない。
自己以前的な条件が行為へ現れ、その行為から自己が後にその条件を読む。
したがって、自己認識とは内面を直接透明に見ることだけではない。
自己が外部化した痕跡を通して、自己の生成条件を遡及することである。
芸術はこの逆問題を強く可視化する。
作品は作者が知っていたことだけを示すのではない。
作者がまだ知らなかったものを外部へ現すことがある。
作者は作品を見ることで、自分自身を後から読む。
作品は自己認識の鏡ではない。
自己以前性を外部化し、遡及的に接近するインターフェイスである。
第十の命題は、言語化と自己固定の関係である。
言語には大きな生成力がある。
感覚へ名前を与える。
経験を共有可能にする。
自分の状態を理解する。
他者へ伝える。
制度へ接続する。
しかし言語化には固定化の作用もある。
「私はこういう人間である」と言う。
その言葉が自己像になる。
自己像が次の行動を方向づける。
さらに行動が自己像を補強する。
この循環が強くなると、一時的な自己記述が固定的な自己根拠へ変化する。
自己以前性は、この固定化の手前を保持する。
言葉になる以前の自分。
まだ決定していない自分。
複数の方向へ動きうる自分。
この領域を完全に言語の外へ置く必要はない。
重要なのは、言語化された自己が自己の全体ではないと理解することである。
言語は痕跡である。
自己はその痕跡より広い。
第十一の命題は、社会的自己の生成である。
人間は他者から名前を呼ばれる。
役割を与えられる。
評価される。
職業を持つ。
所属を持つ。
履歴を持つ。
こうして社会的な自己像が形成される。
社会的自己は必要である。
それがなければ他者との継続的な関係や制度的な行動は難しい。
しかし社会的自己を絶対化すると、生成可能性が閉じる。
「自分はこういう人間だから」。
「この年齢だから」。
「この職業だから」。
「この肩書きだから」。
こうした自己規定が、まだ生じていない未来を先に閉じることがある。
自己以前性は、社会的自己を破壊する理論ではない。
社会的自己の下に、まだ固定されていない生成可能性が残っていることを示す。
自己は役割を持ちながら、役割だけではない。
履歴を持ちながら、履歴だけではない。
名前を持ちながら、名前だけではない。
この非閉鎖性によって、新しい自己が可能になる。
第十二の命題は、自己根拠の問題である。
近代哲学では、確実な自己の根拠を求める思考が強く現れた。
しかし自己以前性から見れば、自己を完全に自己自身によって根拠づけることには限界がある。
自己が自己について考える以前から、身体はある。
他者はいる。
環境はある。
感覚は働いている。
言語もすでにある。
したがって自己の根拠は、自己だけの内部には閉じない。
しかし自己根拠が不可能だというだけでもない。
自己は、現実との接触を感じることで、自分がここにいることを経験する。
これは論理的証明とは異なる。
現実感である。
身体と世界が接触しているという感じ。
自己の感じと現実の感じが重なるとき、「私は現実を感じる」という基礎が生じる。
この問題は生成的コギトへつながる。
「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「私は現実を感じる、ゆえに私は生成する」と考える。
ここで自己は思考だけから確立されない。
身体、感性、世界との接触から成立する。
自己根拠は孤立した自己証明ではなく、現実との関係から生成される。
第十三の命題は、現実感の自己以前性である。
人間は、現実であることを毎瞬論理的に証明してから生きているわけではない。
床の硬さを感じる。
空気の温度を感じる。
誰かの声を聞く。
痛みを感じる。
眠気を感じる。
居心地の悪さを感じる。
愛する人の存在を感じる。
これらが現実感を形成する。
現実感は概念的認識より先に働く。
だからこそ、現実感が失われると、理論的には世界が存在すると分かっていても「現実らしく感じられない」ということが起こりうる。
これは、存在と現実感が同じ位相ではないことを示す。
自己以前性は、この感じの位相を重視する。
現実とは対象が存在していることだけではない。
その存在との関係が身体的に成立していることでもある。
第十四の命題は、共存在との関係である。
自己以前性は、自己の内部だけの理論ではない。
身体感覚は他者との関係によって変化する。
同じ場所でも、一人でいる場合と、愛する人といる場合では現実感が変わる。
誰かの存在によって安心する。
誰かの不在によって空間が変わって感じられる。
声が聞こえなくても、その人の存在を感じることがある。
逆に、その人が物理的にそこにいても関係が失われていると感じることもある。
ここでは存在と共存在が区別される。
共存在とは、単に複数の身体が同じ場所にあることではない。
異なる存在が互いの現実感へ作用し、その関係から現実が生成されることである。
自己以前性は、この共存在が明確な説明以前から身体へ作用することを示す。
信頼もその一つである。
信頼はすべての情報を検証し尽くした後に成立するものではない。
むしろ、完全には検証できない他者へ関係を開くことで成立する。
この意味で信頼にも自己以前的な側面がある。
第十五の命題は、自己以前性と即の関係である。
即は等号ではない。
自己即世界とは、自己と世界が同じものになるという意味ではない。
自己と世界が差異を保持したまま接触するということである。
自己以前性が現れるのは、この接触の瞬間である。
対象を完全に概念化する以前に触れる。
意味を決める以前に感じる。
自己像へ回収する以前に関係する。
即とは、この未固定の接触を保持する概念として理解できる。
即座も同様である。
座とは具体的な位置である。
即座とは、その位置において差異あるものが現在的に接触することである。
即興では、その場の条件に身体が応答する。
あらかじめ決められた自己だけが行為するのではない。
状況によって、その場で別の自己が現れる。
自己以前性は、即興のこの生成構造を支える。
第十六の命題は、自己以前性とAIの位相差である。
人工知能は、言語的には高度な自己記述のような文章を生成できる。
しかしそれが人間の自己以前性と同じ構造を持つとは限らない。
人間には身体感覚がある。
生物的時間がある。
痛みがある。
老いがある。
死亡可能性がある。
場所への身体的埋め込みがある。
他者との不可逆的履歴がある。
人工知能には異なる生成条件がある。
したがって、人間とAIを単純に同一化することも、完全に分離することも適切ではない。
重要なのは位相差である。
AIは、人間の言語的自己へ強く接触する。
人間はAIとの対話を通して、自分の考えを外部化できる。
AIから返された言葉によって、自分が何を考えていたのかに気づくこともある。
この意味でAIは自己外部化のインターフェイスになりうる。
しかし身体感覚、現実感、死、場所性などの位相差は残る。
この差異を消さずに関係することが、生成学における人間とAIの重要な条件である。
第十七の命題は、自己以前性と芸術実践である。
芸術において、作者は自分が何を表現したいかを完全に理解してから制作するとは限らない。
制作が先に進む。
身体が動く。
素材へ触れる。
言葉を書く。
場所へ入る。
他者へ応答する。
その過程から、後から意味が現れる。
したがって芸術は、自己以前性が外部へ現れやすい領域である。
Web Installationでは、ウェブ上の情報と現実空間の接触から、当初の自己意識を越えた関係が生じる。
Smart Artでは、人間が複雑な技術へ接触するとき、明確な理解より先にインターフェイスが身体的行為を方向づける。
民宿狭山美学校では、宿泊、生活、芸術、来訪者、場所の関係から、事前に固定できない状況が生成される。
DAAでは、作者一人の自己意識を越えて複数の参加者や制度的条件が作用する。
Bonsai Heimatでは、人間の意図より先に植物の生命時間が作用する。
これらはすべて、完成した自己が世界を一方的に操作するモデルから離れている。
芸術実践によって、作者自身がまだ知らない自己が外部へ現れる。
この意味で作品は、自己以前性を可視化する痕跡である。
第十八の命題は、作品性との関係である。
作品性は、作者の意図だけから生じるわけではない。
鑑賞者が何かを感じる。
場所によって意味が変化する。
時間によって作品の位置が変わる。
別の出来事によって過去作品の意味が変わる。
つまり作品性も固定されていない。
作品が作品として作用する以前には、まだ名前のない接触がある。
惹かれる。
足を止める。
違和感を覚える。
触れたくなる。
避けたくなる。
何かが残る。
この自己以前的な接触が、後から作品としての意味を形成する場合がある。
したがって作品性は、意味の後だけではなく、意味以前の感性的関係にも根を持つ。
この構造が色気と作品性をつなぐ。
作品の魅力を属性一覧として説明する以前に、作品へ惹きつけられる。
その惹かれが関係を開始する。
第十九の命題は、自己以前性の非閉鎖性である。
もし自己が完全に定義されているなら、新しい自己は生じない。
「私はこれである」が完全に閉じれば、自己は履歴の反復になる。
しかし現実には、新しい経験が自己を変える。
他者との出会いが変える。
死が変える。
愛が変える。
制作が変える。
失敗が変える。
身体の変化が変える。
場所が変える。
技術が変える。
つまり、自己にはまだ自己になっていない可能性が残っている。
自己以前性とは、この未生成の余白でもある。
空席と同じように、まだ誰も座っていないから空なのではない。
何かが到来できる可能性を保持している。
自己以前性は、自己内部の空席として考えることもできる。
すでに決定された自己で埋め尽くされていない場所。
そこに新しい関係が入ることができる。
この非閉鎖性が自由の一つの条件になる。
自由とは完全に無条件な選択ではない。
すでにある条件が未来を完全には一意決定しないことである。
第二十の命題は、生成学における自己以前性の位置である。
人間以前性は、人間に先行する広い関係場を示す。
自己以前性は、その人間の内部において、固定された自己像に先行する生成を示す。
自己外部化は、その自己以前的生成が外部へ痕跡として現れる運動を示す。
インターフェイス存在論は、自己と外部が接触する界面を示す。
共存在は、その接触が他者とともに現実を生成する構造を示す。
生成的コギトは、その生成のなかで自己が現実を感じ、自らを成立させる命題へ進む。
したがって、これらは独立した理論ではあるが、一つの循環としてつながっている。
人間に先行する世界がある。
その世界の内部で身体が形成される。
身体は自己が言語化される以前から感じ、向かい、応答する。
その生成から自己が形成される。
自己は言語、作品、行為として外部化される。
外部化されたものが世界へ残る。
その世界が再び自己へ作用する。
自己が変わる。
さらに別の自己以前的可能性が開く。
この循環には最終的な自己が存在しない。
自己は生成され続ける。
したがって自己以前性の中心命題は次のようにまとめることができる。
自己は、自己より先にある生成から成立する。
身体は、自己が説明する以前から世界を感じている。
感性は、自己が判断する以前から差異へ応答している。
身振りは、自己が意味を知る以前から痕跡を残しうる。
創造性は、自己が完成した意図を持つ以前から動き始めることがある。
そして自己とは、これらの生成を後から一つの「私」として引き受ける局所的な安定状態である。
しかし「私」は最終的な閉鎖ではない。
自己の内部には、まだ自己になっていない可能性が残っている。
自己以前性とは、この未生成の可能性である。
したがって自己は固定的な根拠ではない。
自己は、自分より先に働く身体、感覚、他者、世界を受け取りながら、その都度自らを形成し直す生成的インターフェイスなのである。
Keywords
自己以前性;自己;身体感覚;方向性;情動;身振り;違和感;判断;創造性;現実感;自己根拠;生成;非閉鎖性