No.0070

なぜ日本人はアートを感じようとするのか

text : mama(美学者母)
2015年5月9日(
土曜日)執筆

 

 

 

「なぜ日本人はアートを感じようとするのか」 はいっど〜も〜。
今回は日本美術、強いては世界のアートの核心部分のお話。
そこらの芸大・美大では教えてくれない様な話。
と言っても僕は大学を卒業していないので解りませんが。
高卒の僕からアートの核心部分をお届けしたいと思います。
今回のお話は、 美学、文化人類学、社会学などを横断した話になりますので。 少し高度なお話になります、気軽に質問お受け致します。
それでは本題です。
まず日本では、「アートを感じる」という事は自明な事です。
そもそも日本における現代アートの無理解の根源はこの自明性です。
そもそも「アートを感じる」という自明性がなぜ日本に根付いたのか、
というのも論理的に導ける解があるのですね。
なので、これは「アートは感じる」というのが日本人の思い込み。
だと言える論証となります。

(日本人が「アートを感じる」ベース その一)
日本の建国は神話上から紀元前660年と言われています、
もっと正確に言うと古すぎて解らないというのが本当でしょう。
つまり世界一古く現存する国家です。
それは世界中が認めているところです。
それと「アートを感じる」という事がどう結び付くのか、
それは人とアートは同義であるからです。
人の営みは芸術性や美術性と同じです。
さらに言うと、一定のコミュニティとして単位「国」の中で。
認識を共有しながら世界一長い時間を経ているのです。
その上で、 「自己の認識」と「他者の認識」が、
同じであるという自明性が生まれます。
そこで日本でよく言われる、「他者に対する自己投影」などに繋がる。
「自分がやられて嫌な事は、他人にするな」なんてのもそうです。
すなわち、「自己の認識」と「他者の認識」は一致するのだ。
そして長い年月をかけて実際に、
「自己認識」と「他者認識」は実在社会で一致する文化を生み出した。
これがいわゆる、日本の「ハイコンテクストな文化」です。
ここから日本人の特性でもある、
「感じる事」と「実在性」「現実性」がイコールであるという認識、
そのような「ハイコンテクストな認識」が自明性を持ったのです。
「私が感じる事」は「あの人も感じる事」、
「あの人が感じる事」は「私も感じる事」。
そのように「感じる事」が共通認識という自明性を持ち、
私たちの日本社会は「感じて理解する事」を疑わない、
社会や文化を形成してきたのです。
その上で私たち日本人は「感じて理解する」事を美徳とさえ思っている。
それが日本人が「アートを感じる」というベースの一つです。
また、日本の歪な美術の権威主義もこの事がベースにあり。
あの権威者がそう感じているのだから素晴らしいんだ。
私にはそれを感じる能力がないのだ。
というようなある種カルト的な権威信仰へと繋がります。
まずここに大きな問題があるのです。
そもそも、感じたものの「認識のズレ」を意識していないのです。


(日本人が「アートを感じる」ベース その二)
その一では感じる事の、
「自己認識」と「他者認識」一致の日本での自明性と、
原理的な所での感じる事の「認識のズレ」を記述致しました。
次はもう少しアートサイドのお話になります。
ここでは対比的にヨーロッパ、日本、アメリカ、中国を例に考えます。
まず古典アートが開花したのはヨーロッパです。
イタリア盛期ルネサンスが1500年代で、
日本に西洋美術が押し寄せようとしていた頃は1800年代後半。
それまではアートという西洋的概念は無かったわけです。
1800年代後半に岡倉天心やフェノロサが西洋美術に対抗して、
新しい概念として日本画などを定義していったわけです。
そして1800年代に日本に押し寄せてきた西洋美術が、
その時に全盛の様式だった印象派だったわけですね。
つまり日本人のアートのベースは印象派という事になります。
印象派、皆さんもご存知の通り「感じた事」をコンセプトにしています。
そろそろ皆さんも解ってきたかと思いますが、
日本の「ハイコンテクストな文化」の上に、
さらに西洋から「印象派」という「感じる事」をコンセプトにした、
アートが入ってきて、日本においてアートは「感じる事」という。
二重の強化がなされた事となります。
そしてそして、やがてそれは「アート」は「感じる」という。
日本においてのアートの自明性が現代までつづいているのです。
次に少し角度を変えて中国へ、
皆さんは中国って凄い歴史がある国に思っているかもしれませんが、
実は中国は1949年建国です。
ここに中国がアジア現代アートの中心である所以があるのです。
1949年と言えば、もうアートの中心はアメリカヘ移っています。
代表する様式で言えばアメリカのポップアートが盛り上がってくる位。
日本のアートの古典は印象派ですが、
中国のアートの古典はポップアートなのです。
もっと言えばアメリカは歴史が浅い国で、
自国に垂直的なハイコンテクストな文化が無いので、
水平的なアートのハイコンテクストな文脈を用います。
実はそれは中国も同じで、 国としての歴史が浅く、
また西洋美術の古典がポップアートですから。
アメリカと同じく現代アートが花咲く土台があるわけです。
以上、日本人が「アートを感じる」ベースをお話ししてきました。

ここまで言ってもまだ日本人には「アートは感じる」のだぁ〜!!!
と言う人も沢山いると思いますwww
なのでもう一つ論証として社会学的なアプローチを被せてみます。
ここまで述べてきた事はアートをターゲットに論考しましたが、
「公共」という概念にも合わせて言えます。
日本人が考える「公共」と、西洋人が考える「公共」は違います。
日本人が考える「公共」とは、
(日本人が「アートを感じる」ベース その一)でも述べた、
「自己認識」と「他者認識」が一致する事が自明であるという、
事がベースに「公共」が成立っています。
よく言われるのが、日本人の公共とは自宅の延長である。
例えば、自宅に唾を吐かれたら嫌だから公共でもしないとかwww
自分がされて嫌な事は他人にしない、
それって実は「自己認識」に絶対性を見てしまっているのですね。
しかし西洋では「公共」の考え方は全く違います。
例えばアメリカはいい例でしょう、 そもそも、アメリカなどでは。
「自己認識」と「他者認識」が違うというベースに「公共」があります。
当然ですよね、人種も民族も宗教も国も違う人間が集まっている国です。
そもそも「他者」に対する「自己投影」が成立しないのです。
なのでアメリカなどの「公共」というものは、
他者を理解する事や尊重する事を重視するのです。
なので「公共」とは本来「多様性」を包容する事なのですね。
その多様性を包容するには一定のルールが必要です、
それが「公共」です。
これは社会学的な見知ですが、アートも同じです。
多様性を包容しようとすれば「ルール」が必要なのですね。
それがアートでアメリカなどが用いている文脈的な手法です。
最後に、 「アートを感じる」事自体は否定するわけではないのです。
そこに絶対性を見出す事が多様性を損なう根源なのです。
多様性を可能にするには、文脈や文法、作法等。
共通したルールが必要なのです。
これが無い日本美術はもう癌の塊と化しているのです。
目に観えない「感じる事」を悪用し、
権威や利権の為にある種の信仰を行っている。
グローバルスタンダード、
すなわち多様性の波は必ず日本に押し寄せてきます。 僕は日本がもっと文化レベルの高い国になってほしいと願っています。