No.0106

日本の〈アートと政治〉の感情論の同犠牲

text : mama(美学者母)
2015年9月15日(
火曜日)執筆

 

毎回同じ事を言いますが、
日本人というのは「アート」「美術」を、
感情的に捉える事がアプリオリなものだと思い込んでいます。
しかし「西洋美術」、 所謂いまのアメリカに至「現代アート」まで、
非常にロジカルでハイコンテクストなものなのです。
実際にそれが現実なのです。
しかし多くの日本人は「アート」を誤認しているわけです。
それは所謂日本の印象派問題といいますか。
西洋美術の輸入に失敗したといいますか。
まぁ簡単に言うと、
印象派の輸入と日本の素地が調和した結果ではあるのですが。
日本人はもともと民族性として「感傷的」であり、
ある種の感情的な文化や造形を生み出してきたわけです。
それがある種日本独特の造形原理である、
「わびさび」や「間」などの原理を持つ様になったわけです。
私はその事が「悪い」事だと思っていません、
むしろ日本の文化として素晴らしいものだと考えています。
しかしそれは僕たちの特性として受け入れるべきであり、
西洋から生まれた「民主主義」や「アート」に、
その「感傷的」「感情的」なものを持ち込んではいけません。
それとこれとは別なのです。
西洋人というのは非常に「文脈主義」なのですね、
「史学」というものがあるように、 西洋人はその「文脈性」を重視します。
それが基本的な「民主主義」や「アート」の基盤なのです。
ではなぜ「民主主義」や「アート」には、 「文脈性」が大切なのか、
それは「感情論」が介在する事で、
そこに飛躍が生まれてしまうという事です。
それは「文脈の破断」と言い換える事ができます。
ではその「文脈の破断」は何を起こすのか、
それは「カルト」です、 対象に対する「盲目的な神格化」が起こります。
この様な事が起こらない為に、
西洋では「民主主義」や「アート」において、
「文脈」というものが最大限重視されるわけです。
では今の日本の「民主主義」や「アート」を考えてみます。
今世間で騒がれている「安保問題」しかり、
少し前に騒がれていた「原発問題」しかり。
両方の問題に言える事が「感情論」が先行しているという事。
例えば「安保問題」で言えば、
「戦争反対」とか「民主主義」とか叫んでいますが、
完全に話が「飛躍」しているのが理解できると思います。
誰も戦争すると言っていないし、 だれも民主主義を壊そうとしていない、
恐らく「感情論」で思考が「飛躍」してしまっています。
これは「アート」の現場でもよく聞く事で、
「情熱」とか「迫力」とか非常に感情的な言葉を使い、
完全に話が「飛躍」しているのですね、
これも恐らく「感情論」で思考が「飛躍」しています。
つまり両者に言える事は、
「文脈」を全く考慮せず、また「理知的」に分析せず、
感情論でどうにかしようという、 非常に日本的な作法だと言う事なのです。
私たちは西洋の「民主主義」や「アート」を受け入れています。
それには「作法」が必要で、
「民主主義」や「アート」は「文脈」を高度に構築する、
そのような事が大前提なのです。
日本人だって、
西洋人が「靴」で家に上がってきたらちょっとイラってします。
それは西洋人が日本の文脈を知らないからそうなるのです。
今「民主主義」や「アート」はその状態で、
僕たちは西洋人の「作法」を無視している状態です。
最後に、 僕のフェイスブックのタイムラインが面白くて、
理系の科学者や研究者と、
美術系の芸術家や美術家の二通りの友達がいますが。
理系の人たちは総じて「安保賛成」です、
美術系の人たちは総じて「安保反対」です。
これは、 科学系というのは高度な文脈主義です、
それは科学がそもそも「西洋」のものですからね。
美術系も本当は高度な文脈主義なのですが、
日本のアートを知らない「美術系」の人たちは、
「文脈の破断」を間違いだと考えていません、
「感傷的」「感情的」な事を重視します、
なのでこのような違いが生まれると考えています。
まぁ何にしろ、 「多様性」を僕は大切にしたいと考えています。
これは私の個人的な分析なのでご参考まで。

美学者母