No.0032

映画「海を感じる時」レビュー

text : mama(美学者母)
2014年10月7日(火曜日)執筆

 

先日テアトル梅田にて映画「海を感じる時」を鑑賞してきました。
原作の作者が高校生であったという事もあり非常に繊細な作品である、
それと同時にこの原作が1978年のものであるが、
とても普遍的なテーマを扱い、まったく新鮮さを失っていない。
1978年と言えば私が生まれた年である。
テクノロジーは目紛しく進化している世の中で、
「愛」や「SEX」という問いかけは何も変わっていなかった。
それがある種強烈な「刹那」を感じさせ、私の心を締付ける。
この映画のストーリーについては詳しく触れない、
それはこの映画が「愛」や「SEX」についての根源的問いかけであるからだ。
それよりもこの映画を通して「愛」や「SEX」について、
再考してみたいと考える。
私が考える「愛」や「SEX」についてのスタンスは、
私自身のホームページに記載している。 http://aesthetics.jp/?p=92
この映画では根源的な「愛」や「SEX」への問いかけがテーマである、
特に「愛」とは何なのかという意味を揺さぶる様に、
様々な問いとなる「出来事」が配置されている。
そもそも「愛」とはなんなのだろうか?
「愛」と「SEX」とは同義なのだろうか?
「家族愛」と「恋愛」は違うものなのか?
「自己愛」と「他者愛」は共存しえるのか?
「愛」という一つの言葉なのですが、
その「愛」という一つの言葉に様々なズレが生じジレンマを抱えます。
このジレンマはどうして生まれるのか、
この問題は多くの人間を悩み苦しめます。
それはそもそも「愛」を一元論で語るという事に無理が生じるのです。
「愛」は多様であり、ワガママでもあり、自由でもあるのです。
私たちは究極的に一つのものを「愛」そうとします、
そしてそれが「美徳」であり、「美しい」とさえ考えるのです。
しかし「愛」とは「存在」ではなく「空洞」の様なものなのです。
その「刹那」において、その「空洞」を埋めてくれるものが「愛」です。
その「刹那」において、有る「愛」は常に移り変わる、
「諸行無常」なのです。 例えば一夜限りを共にしたSEXに「愛」はあるのか、 この問いに私が答えるのならそれは立派な「愛」だと答えるでしょう。
例えば生まれてから立派に育ててくれた「親」、
その死に目に溢れてくる気持ちそれも立派な「愛」です。
「愛」とは時に「美しく」時に「醜い」もの。
それが「愛」の本質ではないでしょうか。
改めて、この映画を観て思った次第です。
また原作も時間がある時に読んでみたいと思います。