世界とは所謂外部のみに存在するのであろうか。
それは全くの愚問だ。
よく「ひきこもり」などは自分の世界に閉じこもっていると言うが、
それは全く違う。
脳科学などで言われる「内部表現」という視点で考えれば、
私たちは自分自身の脳が創りだした世界に誰もが生きている。
社交的に見えるあの人も、所詮は自分の「内部表現」に生きているに過ぎない。「社交的」に見える人間より「ひきこもり」と言われている人間の方が、
ボキャブラリーやクリエイティブな力が有るというのも珍しくない。
一見だれともコミュニケーションをとっていない様に「見える」人も、
実は常にコミュニケーションをとっている。
それは内なる「自分」であったり、本の向こうの「偉人」であったり、
作品集の向こうの「芸術家」であったり。
世間一般的に人間は「他人」とコミュニケーションする事を「善」とする、
それには私も同意する。
しかし、世の中でいう他人とは友人だったり知人、
現実に存在する人間だ。
しかし「他人」とは内なる自分でもいいし、本の向こうの人でもいいわけだ。
むしろ僕が「善」とするのは後者の「他人」である。
僕は身近に共感できる人間が居なかった、
だからこそ例えば荒川修作だったり
マルセルデュシャンが、
僕にとっての「他人」であり、
コミュニケーションする相手としてとても刺激を受けた。
ヘンリーダーガーは孤独だったのだろうか。
僕は違うと考える、
彼は内なる他人と常にコミュニケーションをとっていたのだ。