No.0045

当たり前の美学

text : mama(美学者母)
2015年3月12日(
木曜日)執筆

 

「ふざけんな!金返せ!」
古代メソポタミアの粘土板に刻まれた文字の解読を行ったところ、
顧客のクレームであることが判明


http://karapaia.livedoor.biz/archives/52186882.html

アーティストの仕事として、
いかに自分の存在を恒久的に未来永劫残すのかというのがありますが。
この粘度板でもわかるのですが、
結局大層なものより実は凄く身近で、
その時代ではどうでもいい様なものが残るのですよね。
先日「相田みつお」のドキュメンタリーを観ていて、
相田みつおの芸術性はその誰も気づかない「当たり前」、
という空気感を詩や書にしていた事を改めて気づかされた。
それはピカソやデュシャンと言った西洋美術の巨匠たちからも、
同じ芸術性を感じ取る事ができるわけです。
よくよく芸術とは何かと考えたりしますと。
結局の所「当たり前」すぎてその時代には誰も表現しようとしないものが、
芸術になりえるのだと考えています。
特に現代アートというものは現代にあるアートですから、
現代人が観えていないような事を、この現代に表現する訳です。
その評価は実は現代においてなされるべきもので無い事が真実なのです。
現代アートの真の評価は最低でも50年先、
いや100年200年と言ったタイムスパンを経て、
正当な評価が生まれるのだと考えています。
安易に短期的なタイムスパンでの評価を求めてしまうと、
実に皮肉ではあるのですが、
アートというモノ自身を見失ってしまう事が起こってしまうのです。
アートという本質的な部分で評価を求めるのならば、
短期的に評価される事で得る地位や名声をすてる事を、
了承しなくてはならないし。
それがアートの本質なのです。
ちなみに「当たり前」の反対語は「有難し」らしいですよ。