No.0132

アートに収束しようとする陶芸ほど
面白くないものはない

text : mama(美学者母)
2016年4月10日(日曜日
)執筆

 

「アートに収束しようとする陶芸ほど面白くないものはない」
(陶芸の提案2016-用を放擲して- 大阪・ギャラリー白)

皆様〜おっは〜!!!
朝から早速文章でも書いてみようとパソコンを開けて、
何を書こうかと思ったのですが、
先日久しぶりにギャラリー巡りをしたので、
その時の展覧会の事を書こうかと思います。

ここ1年くらい私自身が、
陶芸の方に取り組んでおりまして、
その観点からも陶芸の企画展を鑑賞してきたので、
その展覧会について少し。

大阪のギャラリー白というところで行っていた展覧会、
陶芸の提案2016-用を放擲して- 大阪・ギャラリー白

まぁ私自身ここ1年位陶芸に取り組んでいるので、
それ以前とは陶芸の見方や、
審美眼も全く変わっているので、
これはいい機会だと思い観に行ってきました。

先にパンフレットを家で見ていたのですが、
これまた立派なパンフレットで、
どこからこのお金はでているのだろうか?
とまずそこに目がいってしまった私なのですが、
協賛や後援のクレジットがまったく何も入っていないので、
自主的にやられているのだと思います。

自主的にされている割には、
パンフレットが豪華なのでそこは謎ですがwww

パンフレットに比べて展覧会の内容は、
大変貧相な展覧会でした。

むしろパンフレットの豪華さと、
展覧会の内容の貧相さの落差がアイロニー的で、
そこが一番現代アート的ではあったのですが。

この展覧会のテーマは、
パンフレットによるところまさに、
新しくもなく古いテーマである、
「用の美」というものに主眼が置かれています。

まぁ、陶芸をアートにしようとする常套手段であるのですが。
そろそろ陶芸系の作家も用の美から脱皮しろよっと、
かなり言いたくなってしまいます。

またパンフレットには、
論理武装として、
奥村泰彦という和歌山県立近代美術館教育普及課長、、、
とかなり微妙な中間管理職の方の理屈が書かれています。
まぁこの理屈をアウトラインにしているのだと認識できます。
そこには現代陶芸の定義が明記されているわけですが、
それは実用性を捨てる事が現代陶芸の根本である、
そう書かれているわけですね。

まぁ簡単に要約すると、
陶芸には実用性がある、
もっというと、
「用」が先にあって「形」が後から付いてくるわけです。
その辺が「用」を満たすための「造形」であって、
西洋的な「機能」を追求するための「造形」とは、
根本原理としてまったく違っている。

それが「用の美」としての美しさとされているわけです。
ある意味「造形」としてはある種「最低限の用」を、
「満たす」事ができればよいので、
ある種「日本的な余白」というものがそぎ落とされていない、
そこに「素朴」というある種「カオス」を見る事ができる。

その「用の美」の「用」を取り払ったところに、
この展覧会では「現代陶芸」というものが定義されている。
またその「用」という「実用」と、
「実用性」を捨て去ったものの間の揺らぎが、
「現代陶芸」だとも言っているわけだが。

僕はこの辺が日本の根本的なアートに対する姿勢の問題、
それが非常にクリアに現れているように感じるのです。
ある種のアートへの憧れであったり、
西洋美術への憧れ劣等感、
アートの優位性。

ある意味私たち日本人が本来文化や宗教として抱擁している、
「美学」「哲学」「文化」「宗教」、
そのような私たち日本人が育んできたものが、
あたかも西洋美術が上位概念であり、
日本のそのような美しさが下位概念であるという、
ある種劣等感というものをアプリオリに受け入れいている。
そのようなネガティブな姿勢にしか感じないのです。

僕はギャラリー白で主催者に聞いてみました、
この造形に対して粘土という素材、
陶器という形態である必然性がどこにあるのか?
答えは、
作家にとって作りやすいのではないか、
という答えであった。

果たして本当に作家にとって作りやすいから、
素材が粘土で、
陶器という形態なのだろうか。

僕は完全にそれは違うと考える。
ただ単に参加している作家たちは、
大学なりで陶芸科だったからである。

それはそのほとんどの作家が陶芸科卒だからわかるのだ。
僕のような高卒の人間が現代アートで、
陶芸という手法を使うのと意味がまったく違うwww
そこは理解できるのではないか。

これは何を意味しているのかというと、
純粋にアートサイドから陶芸をみるのと、
陶芸側からアートをみるのは全然違うという事だ。

私からみると、
今回参加している作家の全員が、
陶芸側からアートを観ているのであって、
またアートというものが、
ある意味高貴なもので、
陶芸という概念よりも上位概念である。
その様な認識のもとで、
アートに擦り寄って行こうという試みにしか見えないのである。

私はこれが「アートに収束しようとする陶芸」。
という下品で貧相なものにしか見えない。
これはあらゆる日本のものにいえる、
日本の本来ある「美」というものを、
わざわざ西洋的な価値観である「アート」に、
落とし込む必要など全くない。

それは「盆栽」や「茶の湯」など色々含めて。
「陶芸」は「陶芸」であって、
「陶芸」で面白作品がよいのである。

それを「現代アート」的に「現代陶芸」として、
無理する必要、必然性は全くない。

逆に私は「アート」という領域で活動している、
だから私は「陶芸」「陶器」「土」という、
「素材」や「意味」を「アート」の「素材」として使う。
これは「アート」としては必然的なのである。
これは私が「インターネット」を素材として使用している。
それとなんら変わりない事だからだ。

何にしろ、この展覧会で展示されている作品は、
「アートに収束しようとする陶芸」
というひとつも面白くない作品ばかりで、
それぞれ論述する事も必要ない。

すなわち日本のアートの誤解が集積されたような、
非常に典型的な展覧会であった。

「陶芸」は「アート」ではなく、

「陶芸」は「陶芸」だという事が言いたいのである。

 

美学者母

 

陶芸の提案 2016 -用を放擲して-
石井 美緒・北野 藍子・木野 智史・田中 野穂・中島 綾香・松本 治幸
2016.4.4-4.16 (4.10 close) ギャラリー白