No.0137

他人のふんどしで相撲をとる

text : mama(美学者母)
2016年5月28日(土曜日
)執筆

貴方という人間は何者でしょうか?

どこかの大学の教授?
どこかの病院の医師?
どこかの財団の理事?
どこかの会社の役員?
どこかの会社の社長?

最近やはりインディペンデントというキーワードが、
僕の頭の中をぐるぐる巡ります。

例えば美術家、アーティストでも、

どこかの所属アーティスト?
どこかで展覧会をさせてもらってるアーティスト?
どこかのお金で補助されているアーティスト?

一人の人間というのは、 社会に出た途端に、
誰かしらのふんどしを借りているものです。
誰かのふんどしを借りているから、
そのふんどしは貴方のものじゃないと言われます。
それは理にかなった話なのです。

例えば以前、会田誠さんの展覧会に言及しました。
それは公立の美術館で、他人のふんどしで、
何かしらのレギュレーションが入るのが摂理です。
そこに自由と言う名の、自己を、 レギュレーションを逸脱して、
表すことはできません。

また報道もしかりです、 テレビや雑誌などマスメディアも、
これは他人のふんどしです。 そのふんどしには、
バイアスがかかっているのが摂理です。

右派的なバイアス、
左派的なバイアス。

そのメディアのお金の出所によって違うでしょう。

それは、公平であること以前の、 もっと根本原理的なものなのです。
それは生命維持という、 存在そのものの証明という本質です。
この一番大切な原理を、 私たちはよく見逃しています。
そして、公平や公正、倫理を語りたがるのです。
それ以上の本質的な上位概念を見ようとしせません。

まず私たちは、 どんな事があろうと、
自らの生命維持を守り抜くバイアスが働くのです。
それが人の立場を決めるという本質に気付くべきです。

これはどういう事を証明しているでしょうか?

それは生命担保が、その人の思考を決定づける、 その様な証明です。
そして、いかに人間にとって、 生命担保が独立性を有しているか、
それが、表現の自由と直結しているのです。

最近、美術館関係者が、 表現の自由について、議論するような、
そんな話を聞きました。 しかしその人たち自身が、 何かしらに属している、
その事自身が、 表現の自由を阻害しいてる、
その様な自明性に気付くべきです。

今、表現の最先端は、 インディペンデントをいかに獲得するか、
それが問われています。 ここではっきり言いますが、

下位概念としての何かに属している限り、

「表現の自由を獲得できない」

それがすべての答えであり、
美術関係者が議論する必要もないのです。

表現の自由とは何か?

それは独立性であり、 自らが自らの生命担保を獲得し、
自ら自身のアーキテクチャーを生成する事です。

何かに属する事以上に、

「表現の自由」を阻害するものはありません。

「表現の自由」を阻害するものは、

何かに属する事と同じなのです。
それは、
美術館、
大学、
学校、
会社、
グループ、
コミュニティ、
団体、
組織、
所属、

何かに属する事をやめる事、
そして自らが自らの生命担保の保証、

それが、

「表現の自由」

なのです。

 

美学者母