貴方という人間は何者でしょうか?
どこかの大学の教授?
どこかの病院の医師?
どこかの財団の理事?
どこかの会社の役員?
どこかの会社の社長?
最近やはりインディペンデントというキーワードが、
僕の頭の中をぐるぐる巡ります。
例えば美術家、アーティストでも、
どこかの所属アーティスト?
どこかで展覧会をさせてもらってるアーティスト?
どこかのお金で補助されているアーティスト?
一人の人間というのは、
社会に出た途端に、
誰かしらのふんどしを借りているものです。
誰かのふんどしを借りているから、
そのふんどしは貴方のものじゃないと言われます。
それは理にかなった話なのです。
例えば以前、会田誠さんの展覧会に言及しました。
それは公立の美術館で、他人のふんどしで、
何かしらのレギュレーションが入るのが摂理です。
そこに自由と言う名の、自己を、
レギュレーションを逸脱して、
表すことはできません。
また報道もしかりです、
テレビや雑誌などマスメディアも、
これは他人のふんどしです。
そのふんどしには、
バイアスがかかっているのが摂理です。
右派的なバイアス、
左派的なバイアス。
そのメディアのお金の出所によって違うでしょう。
それは、公平であること以前の、
もっと根本原理的なものなのです。
それは生命維持という、
存在そのものの証明という本質です。
この一番大切な原理を、
私たちはよく見逃しています。
そして、公平や公正、倫理を語りたがるのです。
それ以上の本質的な上位概念を見ようとしせません。
まず私たちは、
どんな事があろうと、
自らの生命維持を守り抜くバイアスが働くのです。
それが人の立場を決めるという本質に気付くべきです。
これはどういう事を証明しているでしょうか?
それは生命担保が、その人の思考を決定づける、
その様な証明です。
そして、いかに人間にとって、
生命担保が独立性を有しているか、
それが、表現の自由と直結しているのです。
最近、美術館関係者が、
表現の自由について、議論するような、
そんな話を聞きました。
しかしその人たち自身が、
何かしらに属している、
その事自身が、
表現の自由を阻害しいてる、
その様な自明性に気付くべきです。
今、表現の最先端は、
インディペンデントをいかに獲得するか、
それが問われています。
ここではっきり言いますが、
下位概念としての何かに属している限り、
「表現の自由を獲得できない」
それがすべての答えであり、
美術関係者が議論する必要もないのです。
表現の自由とは何か?
それは独立性であり、
自らが自らの生命担保を獲得し、
自ら自身のアーキテクチャーを生成する事です。
何かに属する事以上に、
「表現の自由」を阻害するものはありません。
「表現の自由」を阻害するものは、
何かに属する事と同じなのです。
それは、
美術館、
大学、
学校、
会社、
グループ、
コミュニティ、
団体、
組織、
所属、
何かに属する事をやめる事、
そして自らが自らの生命担保の保証、
それが、
「表現の自由」
なのです。
美学者母