ポケモンGOはAR/VRの全てを変える(そして何も変えない)
http://jp.techcrunch.com/2016/08/14/20160812pokemon-go-changes-everything-and-nothing-for-arvr/
この記事は素晴らしく面白い。
この記事を読みながら、
僕が尊敬するマルセル・デュシャンの泉を思い出した。
マルセル・デュシャンの泉は、
アートにとっての特異点だったと考えている。
しかしアート史上もっとも重要な特異点となった作品は、
「便器」である。
これは昨今のテクノロジーやアートに投げ掛けている問いである。
表面上の飛躍というのは実は容易な事なのです。
僕の言説で度々批判しているチームラボの作品などは、
表面上の飛躍なのですね。
最近の話でチームラボとラッセンの同義性を論じている、
その様な言説もあるのですが、
この点については私も全く同意するのです。
これは作品単体としての評価では無く、
アートマーケットやポピュラリズムとの親和性、
それらも含めたアーキテクチャ自体を肯定するものです。
しかしラッセンにしても、チームラボにしても、
それ自体をアーティストが企てたものかは疑問です。
実際に起こっている現象としては、
アートとして価値があるものかもしれませんが、
それが同時にアーティストの評価には全く繋がりません。
むしろその様なコンテクストで見るのならば、
ディズニーランドやユニバーサルスタジオの方が、
格段に評価できるし、
同じ土俵で考えると、
チームラボのショボさが理解できると思います。
本質的にアートやテクノロジーの飛躍とは、
実はほんの少しの意識、認識のズレなんですね。
アートの専門家、特に僕はそうですが、
その原理的な意識や認識のズレを分析するわけです。
つまり本質的にアートやテクノロジーが進化した、
それは現象として、認識としてのズレが生まれた、
それはある一部の人間に起こったのではなく、
マスレベルでそれが起こった時に進化したと言います。
なので、表面的に壮大で、華やかで、圧倒される、
その様な意味での進化というものは無いのです。
その様な表面性の演出というのは、
資本をかければいくらでもできるのですねwww
それはディズニラーンドやユニバーサルスタジオ、
さらに言うとアラブのお金持ちの国、
無駄に高いビルとか無駄に豪華な建物、
無駄に演出された壮大なショー。
しかしそれらの表面性は、
アートやテクノロジーにとっては特異点にはなりません。
アートで言えば、
真鍋大度の地味なYOUTUBE動画の作品の方が、
特異点となる重厚さがあります。
本質的なイノベーションやパラダイムシフト、
その様な事が実際に起こっている時というのは、
普通の人は気づかないわけです。
なぜならこれらは、
無意識レベルで起こる、
認知バイアスの反転が起こっているからです。
この反転を特異点と言っていいと思いますが。
この認知バイアスを反転させるという事が、
どれだけ難しいかという事を理解する事が必要です。
僕たちアーティストというのは、
この特異点を自ら認識し、
社会の人々の無意識レベルに侵入し、
それをいかに反転させるのかという試みを行っています。
実際の所ここまで考えて企てしているアーティストは、
世の中にほとんど存在しません。
しかしアートの起源から考えても、
呪術であった頃から、美術である現在まで、
アートというのは、一つの「術」であるのです。
その「術」を使う人間がアーティストなのですね。
その「術」を理解して使っているのが僕で、
その「術」を理解していないのがほとんどです。
ただ僕の尊敬しているマルセル・デュシャンなどは、
その「術」を理解していた人間です。
これらの理解の違いは、
ある意味カルト宗教や霊能者の様な人間と関係があるのですが、
この事はまたの機会に譲ります。
今回ポケモンGOについての記事への言説ですが。
今回はARに対しての特異点であると記事ではあります。
まさに僕もその点に関しては同意します。
つまり僕たちはARに対しての意識や認識、
その認知バイアスを反転させられたのですね。
アート的に言うと、
事象の地平を広げられたわけです。
これは我々人類にとって、
より豊かな世界を創造する事を意味します。
そして、
何よりも世の中を変えるという事は、
実は本当に少しの意識や認識のズレ、
それが原理であるという事を、
皆さんに少しでも理解していただければ幸いです。
美学者母