本当に自然災害が多い日本、
3.11以降も自然災害は後を絶ちません。
この記事を書いている前日も、
北の北海道や岩手では台風による災害、
南の九州では震度5の地震、
改めて日本の自然災害の多さに驚いています。
しかし、
このような日本列島の地理的特性は、
現代だけのものではありません、
日本の歴史では、
何千年も続いてきたものなのです。
そして、私たち日本人は、
ある意味日本人としての特性を獲得してきたのですね。
その様な日本人の特質を、
改めて、
この自然災害が多い現代で、
考え直してみることも必要だと思います。
実は、
この様な日本の地理的特性は、
日本の文化へ多大な影響を与えています。
要するに、私が専門とする美術、
それら日本のアートの世界へも、
その様な地理的特性は大きなベースなのですね。
今回はその辺をご紹介したいと思います。
まず日本人のアート的な特性として、
日本画でも観られる平面性、
いわゆるフラットな画面。
次に抽象度の高い表現、
ハイコンテクストなテーマ、
モティーフ。
それが大きな特徴としてあります。
これらも、
そのような地理的特性から産まれたものです。
それはどういう事か説明していきます。
現代では悪い意味で使われている言葉、
それはスクラップアンドビルドです。
建築物などを建てては壊すという事や、
無駄に新しいものへ更新するなど、
スクラップアンドビルドは、
非合理、非効率な意味で使われる事が多いです。
しかし、
スクラップアンドビルドという言葉自体は、
もともとは、非効率や非合理な言葉ではないのですが、
今ではネガティブな意味で使われる事が多い様に思います。
日本という国や文化は実はこのスクラップアンドビルド、
この言葉で非常に端的に表す事ができます。
それはどういう事か?
それは日本が地理的に非常に自然災害が多い、
その様なところから解が求められるのですね。
つまり自然災害、
台風や津波、洪水や強い風雨。
それらで日本、日本人というのは、
あらゆるものを常に奪われてきたわけです。
建物や畑や田んぼ、
家族、友人、知人、
その様な身近で最も大切なものが、
いとも簡単に、
数時間、数分、で全て失ってしまう。
その様な経験を、
何千年も繰り返してきたわけです。
すなわち、
壊れては立て直し、
壊れては立て直し、
それを延々と繰り返してきた。
これは日本人のDNAレベル、
無意識レベルにおいて蓄積されているものです。
そして日本人はある意味の永遠性や不変性、
そしてある意味の演繹性を捨ててきたわけです。
その部分から日本人の特性である、
抽象度の高い思考、平面性、ハイコンテクスト、
その様な特性が生まれてきました。
すなわち西洋とは全く別の文化のベースになった。
西洋の文化というのは非常に演繹性の高い、
またローコンテクストで、
抽象度の低い文化です。
日本の建築が木造建築が主体になったのも、
ある種スクラップアンドビルドしやすいからで、
西洋の建築が石やコンクリートの建築が主体ですから、
その様な点からも考察できます。
つまり日本、
日本人というのは、
諸行無常、
刹那、
その言葉の様に生きてきたわけですね。
つまり木造建築はある種の「柔」なものです。
石やコンクリートの様に、
無理に抵抗しても敵わない自然の脅威に、
日本人は寄り添って生きてきたのです。
その様な「柔」的な精神は、
抽象度の高い、
ハイコンテクストな文化を産み出します。
つまり演繹性などを排除し、
破壊的な創造、
演繹的な意味や文脈を超えた表層、
それらを日本人は古くから獲得していました。
例えば西洋的な演繹性やローコンテクストから、
西洋で産まれた哲学や思想を見てみても、
例えば脱構築やポストモダン、
もっと最先端の思弁的実在論などは、
日本人が元々持っていた精神性なわけです。
美術の世界でも、
西洋美術史的な近代美術の演繹性は、
当初の抽象度の低い表層から、
抽象度の高い表層へと移行し、
抽象絵画や、レディメイド、コセンプチャルアート、
その様に変遷していきますが、
実は美術の専門家の間では、
日本の美術がすでに網羅していたものとし認識されています。
特に皆さんがご存知の経営学者ピーター・ドラッカーは、
実は日本美術の専門家でもあり、
その点について深く研究している一人でもあります。
また現代アート作家の村上隆は、
日本には現代アートは根付かないと言っていました、
これには深い意味があると考えています。
それは、
日本にはこの様なとても抽象度の高い、
文化や芸術、精神、生活が延々とあるわけです。
それは非常にハイコンテクストな文化として存在します。
現代アートとは、
西洋人のローコンテクストな文化から産まれた、
ハイコンテクストな営みなのですね。
そこでわざわざ日本人が、
現代アートというハイコンテクストな営みを、
改めて受け入れなくても、
日本人は非常に身近に、
そのようなハイコンテクストな営みを、
生活の一部として、
また文化として持っているのです。
すなわち、
その様な日本人が、
日本のハイコンテクストな文化を反省し、
西洋の演繹性を学び直し、
西洋のハイコンテクストな営みを、
わざわざ日本人が好き好まないという事を、
村上隆は指摘している様に考えています。
この様に日本人は、
日本という地理的特性から、
多大な影響を受け現代のハイコンテクストな文化を、
日常生活の中で手に入れたのです。
そのハイコンテクストな文化を手にいれる原理に、
スクラップアンドビルドという精神があるのです。
そのスクラップアンドビルドが抽象度の高い思考を産み、
そして演繹性に関係のない表層を実現した。
それは現代のオタクカルチャーのベースとも言われています。
アニメやマンガ、アイドル。
そしてその様な日本文化が現代では、
世界の最先端として広く流通し始めています。
これはある種私にとっては驚異であり発露でもあります。
つまり私は現代アートをしていたのですが、
もう現代アートの時代は終わりました。
そして日本文化の時代がきたのだと確信しています。
その中で、
自分のアートがどうあるべきか、
そしてどう現代アートを越えていくのか、
そこを模索しながら、
ポスト現代アートとして、
「量子論美術宣言」で量子論美術を、
ポスト現代アートとして社会に提示しました。
これがブレイクスルーになるかは解らない、
しかし何かしないといけないのです。
それがアーティストの宿命です。
そしてこれは最近発表された映画「シンゴジラ」、
この映画に繋がります。
私も観させていただきましたが、
これは現代アートの終焉を告げるかの様な映画、
その様に強く感じました。
もう日本での現代アートは限界なのです。
それを表層する様に、
あの村上隆が、庵野秀明に敗北したと言っていました。
まさに日本現代アートが敗北した、
その様に言える映画だったのではないでしょうか。
しかし表現し続けなければなりません。
量子論美術がしっかりと広がる様に。
美学者母