No.0163

「日本文化の本質であるスクラップアンドビルド」 (シン・ゴジラと日本文化の相関性)

text : mama(美学者母)
2016年9月1日(木曜日
)執筆

 

本当に自然災害が多い日本、
3.11以降も自然災害は後を絶ちません。
この記事を書いている前日も、
北の北海道や岩手では台風による災害、
南の九州では震度5の地震、
改めて日本の自然災害の多さに驚いています。

しかし、
このような日本列島の地理的特性は、
現代だけのものではありません、
日本の歴史では、
何千年も続いてきたものなのです。

そして、私たち日本人は、
ある意味日本人としての特性を獲得してきたのですね。
その様な日本人の特質を、
改めて、
この自然災害が多い現代で、
考え直してみることも必要だと思います。

実は、
この様な日本の地理的特性は、
日本の文化へ多大な影響を与えています。

要するに、私が専門とする美術、
それら日本のアートの世界へも、
その様な地理的特性は大きなベースなのですね。
今回はその辺をご紹介したいと思います。

まず日本人のアート的な特性として、
日本画でも観られる平面性、
いわゆるフラットな画面。
次に抽象度の高い表現、
ハイコンテクストなテーマ、
モティーフ。

それが大きな特徴としてあります。
これらも、
そのような地理的特性から産まれたものです。

それはどういう事か説明していきます。
現代では悪い意味で使われている言葉、
それはスクラップアンドビルドです。
建築物などを建てては壊すという事や、
無駄に新しいものへ更新するなど、
スクラップアンドビルドは、
非合理、非効率な意味で使われる事が多いです。

しかし、
スクラップアンドビルドという言葉自体は、
もともとは、非効率や非合理な言葉ではないのですが、
今ではネガティブな意味で使われる事が多い様に思います。

日本という国や文化は実はこのスクラップアンドビルド、
この言葉で非常に端的に表す事ができます。
それはどういう事か?
それは日本が地理的に非常に自然災害が多い、
その様なところから解が求められるのですね。

つまり自然災害、 台風や津波、洪水や強い風雨。
それらで日本、日本人というのは、
あらゆるものを常に奪われてきたわけです。
建物や畑や田んぼ、 家族、友人、知人、
その様な身近で最も大切なものが、
いとも簡単に、 数時間、数分、で全て失ってしまう。

その様な経験を、
何千年も繰り返してきたわけです。
すなわち、

壊れては立て直し、
壊れては立て直し、
それを延々と繰り返してきた。

これは日本人のDNAレベル、
無意識レベルにおいて蓄積されているものです。
そして日本人はある意味の永遠性や不変性、
そしてある意味の演繹性を捨ててきたわけです。

その部分から日本人の特性である、
抽象度の高い思考、平面性、ハイコンテクスト、
その様な特性が生まれてきました。

すなわち西洋とは全く別の文化のベースになった。
西洋の文化というのは非常に演繹性の高い、
またローコンテクストで、
抽象度の低い文化です。

日本の建築が木造建築が主体になったのも、
ある種スクラップアンドビルドしやすいからで、
西洋の建築が石やコンクリートの建築が主体ですから、
その様な点からも考察できます。

つまり日本、
日本人というのは、
諸行無常、
刹那、

その言葉の様に生きてきたわけですね。

つまり木造建築はある種の「柔」なものです。
石やコンクリートの様に、
無理に抵抗しても敵わない自然の脅威に、
日本人は寄り添って生きてきたのです。
その様な「柔」的な精神は、
抽象度の高い、
ハイコンテクストな文化を産み出します。

つまり演繹性などを排除し、
破壊的な創造、
演繹的な意味や文脈を超えた表層、

それらを日本人は古くから獲得していました。

例えば西洋的な演繹性やローコンテクストから、
西洋で産まれた哲学や思想を見てみても、
例えば脱構築やポストモダン、
もっと最先端の思弁的実在論などは、
日本人が元々持っていた精神性なわけです。

美術の世界でも、
西洋美術史的な近代美術の演繹性は、
当初の抽象度の低い表層から、
抽象度の高い表層へと移行し、
抽象絵画や、レディメイド、コセンプチャルアート、
その様に変遷していきますが、
実は美術の専門家の間では、
日本の美術がすでに網羅していたものとし認識されています。

特に皆さんがご存知の経営学者ピーター・ドラッカーは、
実は日本美術の専門家でもあり、
その点について深く研究している一人でもあります。

また現代アート作家の村上隆は、
日本には現代アートは根付かないと言っていました、
これには深い意味があると考えています。
それは、
日本にはこの様なとても抽象度の高い、
文化や芸術、精神、生活が延々とあるわけです。
それは非常にハイコンテクストな文化として存在します。

現代アートとは、
西洋人のローコンテクストな文化から産まれた、
ハイコンテクストな営みなのですね。
そこでわざわざ日本人が、
現代アートというハイコンテクストな営みを、
改めて受け入れなくても、
日本人は非常に身近に、
そのようなハイコンテクストな営みを、
生活の一部として、
また文化として持っているのです。

すなわち、
その様な日本人が、
日本のハイコンテクストな文化を反省し、
西洋の演繹性を学び直し、
西洋のハイコンテクストな営みを、
わざわざ日本人が好き好まないという事を、
村上隆は指摘している様に考えています。

この様に日本人は、
日本という地理的特性から、
多大な影響を受け現代のハイコンテクストな文化を、
日常生活の中で手に入れたのです。
そのハイコンテクストな文化を手にいれる原理に、
スクラップアンドビルドという精神があるのです。

そのスクラップアンドビルドが抽象度の高い思考を産み、
そして演繹性に関係のない表層を実現した。
それは現代のオタクカルチャーのベースとも言われています。
アニメやマンガ、アイドル。
そしてその様な日本文化が現代では、
世界の最先端として広く流通し始めています。

これはある種私にとっては驚異であり発露でもあります。

つまり私は現代アートをしていたのですが、
もう現代アートの時代は終わりました。
そして日本文化の時代がきたのだと確信しています。

その中で、
自分のアートがどうあるべきか、
そしてどう現代アートを越えていくのか、
そこを模索しながら、
ポスト現代アートとして、
「量子論美術宣言」で量子論美術を、
ポスト現代アートとして社会に提示しました。

これがブレイクスルーになるかは解らない、
しかし何かしないといけないのです。

それがアーティストの宿命です。

そしてこれは最近発表された映画「シンゴジラ」、
この映画に繋がります。

私も観させていただきましたが、
これは現代アートの終焉を告げるかの様な映画、
その様に強く感じました。
もう日本での現代アートは限界なのです。

それを表層する様に、
あの村上隆が、庵野秀明に敗北したと言っていました。
まさに日本現代アートが敗北した、
その様に言える映画だったのではないでしょうか。

しかし表現し続けなければなりません。

量子論美術がしっかりと広がる様に。

 

 

美学者母