No.0168

アートっぽさが大量消費される日本
TOKYO DESIGN WEEKのアート殺人事件をうけて

text : mama(美学者母)
2016年11月8日(火曜日
)執筆

 

2016年11月6日に、
TOKYO DESIGN WEEKでアート殺人事件が起こり、
5歳の子供が命を亡くされました。

まずもって、 謹んで、お悔やみ申し上げます。

この事件は、
私自身は事故ではなく、
殺人事件だと考えていますので、
その様に表現させていただきます。

また、
現代アート作家、
現代美術家、
美学者、

その様な肩書きで活動している私ですので、
今回のニュースでは現代アート作品と、
アナウンスされている事からも。
他人事では無く、
一人の創造者として、
怒りとともに、 大きな責任を感じている所です。

今回の事件に対し、
創造者として正面から受け止め、
私なりの考えを書かせて頂きます。

 

(アートとは何か?)

まずもって今回イベントで設置されていた展示物が、
現代アート作品とニュースでアナウンスされていました。
ではあの展示物がなぜアート作品なのか?
という根本的な疑問が生まれます。

これはアートという言葉が、
現代の日本では大量消費される対象であり、
それ自体が目的では無く、
手段としてのアートっぽいもの、
それをアートとして展示しています。

今回の事件の根源的な問題とも繋がりますが、
TOKYO DESIGN WEEK、
芸術祭、トリエンナーレ、ビエンナーレ。
現在このような形態のアートイベントが、
日本では大量に発生しています。

まずアート作品そのものが目的ではなく、
そのイベントが目的になり、
アート作品そのものが手段に成り下がっている。
それが今回の事件の根源的な問題です。

アートはそれ自体が目的でなければなりません。

 

(大量消費されていくアート)

かの有名なアーティスト、
アンディ・ウォホールは、
大量消費社会をアイロニーに表現し。
そのコンセプトを芸術へと昇華させました。

しかし現代の日本のアートは、
ウォホールがコンセプトにしたもの、
それは大量消費される、物、イメージなど。
それ自体にアートがなってしまっている。
これは大変危険な事です。

これはアートが、
一つのコンテンツになってしまっているのと同義です。
今回の事件でもまた、
TOKYO DESIGN WEEKというイベントの、
一つのコンテンツとして、
アートっぽいものが消費されていました。

つまり現在のアート的なイベントに必要な、
アートっぽいコンテンツが枯渇している状態なのです。
昨今のアートイベントの乱立、
また、今回のTOKYO DESIGN WEEKでは、
インタビューで600点もの展示物があったと聞きました。

その中でも本当にアートと呼べるもの、
アートの本質を理解しているアーティストは、
1パーセント以下だと考えています。
すなわち、
その他の99パーセントは間に合わせで、
アートっぽいコンテンツを揃えなければなりません。
すなわち、
今回事件を起こした展示物を制作したのは、
日本工業大学のサークルという事ですが、
これは誰が考えても、
コンテンツの間に合わせという印象が拭えません。

アートが解らない、
アートの本質が理解できていない、
大学生という未熟な人間に、
間に合わせのアートっぽい展示物を制作させた。

これはある意味、
この未熟な大学生達も被害者と考えても、
私はいいと思っています。

 

(殺人の加害者は誰か?)

今回の事件は日本工業大学の建築や工学系の学生が、
参加し制作した展示物だと聞いています。
まずアートの素人です。
そして学生です。
これがアーティストなら話が違いますが、
アーティストでは無い人間に、
何かを作らせて、
これが現代アートですという、
その様な価値担保をしたのは、
そもそも誰かという事が、
本質的な加害者へと近づく道です。

TOKYO DESIGN WEEKの組織は、
様々なジャンルの権威者が集まっている、
その様な組織です。
つまり、 この様な未熟な展示物に、
現代アートという価値担保を与えた張本人は、
まさしくTOKYO DESIGN WEEKという組織です。

今回のアート殺人の加害者は、
TOKYO DESIGN WEEKの組織に名前を連ねる、
様々なジャンルの権威者一人一人なのです。

 

(アーティストとそうでない者との違い)

以前に日本の現代アートで死亡事故がありました、
その時は、 作品制作中の作家本人が死亡しました。
それは一酸化炭素中毒です。
その時にも同じ事を発言しましたが。
マテリアルへの愛、知識、あつかい。
これがアーティストにとって大変重要である。
これはリビドーとしての表現として、
通常通るべき思考プロセスでありますし、
素材というものはアートにとって、
一番大切な表現媒体です。

すなわち、
自分が表現を置き換える媒体ですから、
ある意味、 アーティストにとって命の様なものです。

例えば物理的なマテリアルなら、
どの様な性質や特性があるのか、
どういった危険性があるのか。
など、 基本的にアーティストは素材研究を行います。

それはコンセプチャルアートでの、
素材としてのコンセプトでも、
歴史や時代背景、その意味、解釈など。
素材としての情報の研究をします。

私で言えば、
インターネットをマテリアルとしていますので、
インターネットの研究はもちろんの事、
それを媒介するデバイス、
ハードウェア、ソフトウェア、
最先端科学まで常に研究しています。
今回の日本工業大学の学生に、
その様な知性はあったでしょうか?

例えば建築を学べば、 木材建築は学びますし、
消防法からの難燃・防炎素材など、
それらは学んでいるはずですが。。。

つまり素材への愛がなかったわけです。
彼らにとって、
その素材であるべき必然性もなかったでしょうし、
その素材への敬意も無かったでしょう。
照明一つにしても、
光の学びが必要です。

そのようなプロセスが無い、
ただ形だけを真似した設置物。
例えばインスタレーションという表現形態は、
誰にでも行えるものですが、
本質的にはそんなに簡単なものではなく、
非常に困難な表現です。

しかし、 一見すると、 その違いは全くわかりません。
アートっぽくするのは簡単です。
アートはアーティストが行うべきで、
アーティストにはそれなりの知性や教養が必要で、
さらに自分の命を掛けて取り組む姿勢が必要です。
この学生たちにその気があったでしょうか?
このサークルのツイッターアカウントは、
即日削除されたそうです。

まずアーティストなら、
今回の事件に真正面から向き合う、
それが最低条件でしょう。

彼らはアーティストでも無いし、
展示物は現代アートでも無い。
それは明確に示しておきます。

 

(最後に・・・ 起こるべくして起こった事件)

ここまで読んで頂いてありがとうございます。
今回の事件は、 昨今の大量消費されるアートっぽいもの、
それが展示されるイベント、
それらから導き出された結果です。
ある意味起こるべくして起こった事件です。

もう今の日本のアートは腐っています。
TOKYO DESIGN WEEKを筆頭に、
芸術祭、トリエンナーレ、ビエンナーレ、

それに、チームラボやら

アートっぽさを消費している限り、
この様な悲惨な事件はまた起こるのです。
もっと本質的にアートを、
より多くの人が理解する、
その様な思いをもって今回執筆致しました。

本当に今回の事件は悔しいです。
日本のアートにも飽きあきです。

僕は自分のやるべき事をやっていきます。

少しでも本質的なアートを伝えるために。

 

美学者母