No.172

動的平衡としての平和と戦争

text : mama(美学者母)
2016年11月26日(日曜日
)執筆

 

人間とは概念世界に生きているので、
認識する必要がある。
認識とは、
それとそれ以外を判別することで、
そのものを、
それと認識できるのである。

しかし世界の本質とは、
それが、
それで有り、
それで無い、
という事が本質なのである。

私たち人間は、
認識すると同時に、
その本質を失うのである。

それはどんなインテリであろうが、
天才、秀才であろうが、
概念世界においては、
誰もが本質を失っている。

だからこそ、
インテリ層がオウム真理教に心酔していったのである。

つまり概念世界では捉えきれ無い本質を、
私たちは知りたがっているのである。

ここで言っているのは精神的本質であるが、
また人間的、生物的本質もまた同じである。

生物学的には、
人間は動的平衡を保ち生かされている。
つまるところ、
肉体は有ると同時に無いのである。
この事は、
細胞の死と、
細胞の生が、
常に同時的に起こっている事を示す。

ではこの様な本質的な考察から、

平和や戦争を考えてみる。
日本のリベラルと言われている人、
特にインテリ層は、
ここで言っている本質を失っている。

私たちが平和を意識すると同時に、
どこかで戦争が同時に起こるのである。
どうしてそうなるのか?
それが概念世界の本質だからだ、
平和というエネルギーが強くなるほど、
戦争というエネルギーが強くなる。
お互いを相殺しようとする、
動的平衡の作用である。

つまるところ、
この世の中から、
平和を願う人が居なくなれば、
本質的には、 戦争は無くなるのである。

これはある種、
仏教哲学も同様で、
己を意識すれば、
己以外が現れる。

悟りとは、
己と全体、
全体と己が、
同時に存在している事で、
概念世界では、
縁起や空と表現される。
また造形的には、
曼陀羅として表されている。

僕が繋がっているインテリ層は、
どうもリベラルである事が、
先端的で本質であると、
西洋思想を盲信している。

ある意味「カルト」なのである。
自分が頭脳明瞭だと思っている人間ほど、

実はバカでアホなのだ。

それは、
この文章の本質に記載している通りである。

 

美学者母