No.186

読むという体験に対する想い
(文章のアートの可能性)

text : mama(美学者母)
2017年1月4日(水曜日
)執筆

 

人は読んだことの10%しか覚えてないが、体験したことの90%は忘れない

https://www.advertimes.com/20161025/article236778/2/

 

この記事にとても興味を持ちました。
それは、
「読む」ということと「体験」を、
対極に捉えているからです。

では本当に、
「読む」と「体験」は対極のものなのでしょうか。
私は「読むという体験」をアートにしている立場から、
この「読む」と「体験」を考察していきたいと思います。

まず「読む」というものは、
非常に抽象度が低いものだと考えます。
それは言語というものが、
概念的にかなり細分化されている事からも理解できます。
すなわち人間の認知という部分では、
非常に具体的であると言えるわけですが、
人間には忘却という能力が存在しています。
人間は必要なもの以外は忘れていく、
その様な能力があるので、
本や、文章、言説などを読んでも、
細部まで記憶していません。
その上で、
人間は本や、文章、言説をその総体として、
記憶し認識するわけです。
すなわち「読む」というものは、
本や、言説、文章など、
大量の情報をある意味、
総体として抽象化し、
単純なものとして理解しようとするものです。
この残存が、
読むという総体として意識に概念化され残るのです。
しかしここで重要なのは無意識です。
総体として理解した意識下には、
消化、理解できなかった大量の情報が、
無意識の中で浮遊しているのです。
これはアートで言うと、
スーパーリアリズム的と解釈します。

 

それと比べて「体験」というものは、
非常に抽象度が高いものであると言えます。
それは体験というものが、
そもそも概念化できないもの、
つまり概念化できなという事は、
「体験」というものに演繹性が全く無い。
その様なことからも、
「体験」が抽象度の高いものであると言えます。
しかし体験するという物理的空間には、
大量の情報が存在しています。
しかしまず人間の認知能力が、
認知できるものを制限し、
その上で、
人間は自らの必要な情報だけを認知しようとします。
結果、
人間は最低限のものしか認知、
記憶していません。
そしてこの意識の残存が、
体験の総体として意識に概念化され残るのです。
しかし体験でも、
体験の総体としての意識下には、
大量の情報が無意識の中に浮遊しているのです。
これはアートで言うと、
キュビズム的と解釈します。

この様な「 読む」と「体験」の相対化から、
どの様な事が浮かび上がってくるか、
それは、 「読む」ということが、
非常に抽象度が低いが、
認知を通す事により 、
非常に抽象度が高くなるという事。

「体験」ということが、
非常に抽象度が高いが、
認知を通す事により、
非常に抽象度が低くなるという事。
その様な事が浮かび上がってきます。
この事を理解しようとする時に、
人間の認知構造を理解する必要があります。
それは、 「概念」と「体験」というものが、
それ自体では自立できないという事の理解、
それがとても重要であるという事です。

すなわち、
「概念」と「体験」は不可分である。
「読む」と「体験」は不可分である。
その様な最低限の理解が必要です。
すなわち「人間」は、
「読む」ことだけはできない、
「体験」することだけはできない、
という事です。
この事をもっと端的に表現すると、
フラクタル的、
部分関数的、
その様に理解するといいと思います。

すなわち、
「全体は部分であり、部分は全体である」、
すなわち、
「読む」と「体験」は一つの総体としてあるのです。
本来この「読む」と「体験」は不可分なものですが、
常にこの関係を可分できると理解しているのが、
一般的な世の中なのです。

先に記述した、
スーパーリアリズムとキュビズムですが、
これはアートの文脈では切り分けられた様式です。
しかし、 芸術的な原理は同じなのですね。
それは「読む」と「体験」の説明と同義です。

そもそもアートとは体験です。
ファインアートは造形からの体験を原理としています。
私の書いている文章や言説は、
演繹性からの視点で読む事を否定します。
私の書いている文章や言説は、
一つの総体としての造形の体験を肯定しています。

つまるところ、
私の文章や言説は、
「読むという体験」を提供しているのです。
それは、
私の文章や言説は造形だからです。

これは最先端の試みで、
まだ芸術や美術として認められていません。
しかし、
最先端の映像インスタレーションなどは、
この様な美術的レトリックを使っています。

例えば映像インスタレーションなどを理解しようとする。
その時に、 私のような立脚が絶対的に必要です。
この事をもっと原理的に表現すると、
昨今、歴史や時間軸が問題になっていますが、
これは一つの総体が存在しているという理解が必要で。

時間は刹那であり、
刹那は時間である。
時間と刹那は一つの総体である。

この事を理解するのは、
とても困難な事です。

私のウェブインスタレーションを、
「読むという体験」という立場に立脚し、
再度、読んでみてほしいですし、
今回シェアした記事の内容とも、
照らし合わせて熟考してみてください!!!

 

 

美学者母