人は読んだことの10%しか覚えてないが、体験したことの90%は忘れない
						  https://www.advertimes.com/20161025/article236778/2/
						   
						  この記事にとても興味を持ちました。
それは、
						    
						    「読む」ということと「体験」を、
						    
						    対極に捉えているからです。						    
						  では本当に、
「読む」と「体験」は対極のものなのでしょうか。
						    
						    
						    私は「読むという体験」をアートにしている立場から、
この「読む」と「体験」を考察していきたいと思います。
						   まず「読む」というものは、
非常に抽象度が低いものだと考えます。
それは言語というものが、
概念的にかなり細分化されている事からも理解できます。
						    
						    すなわち人間の認知という部分では、
						    
						    非常に具体的であると言えるわけですが、
						    
						    人間には忘却という能力が存在しています。
人間は必要なもの以外は忘れていく、
						    
						    その様な能力があるので、
						    
						    本や、文章、言説などを読んでも、
						    
						    細部まで記憶していません。
						    
						    その上で、
						    
						    人間は本や、文章、言説をその総体として、
記憶し認識するわけです。
						    
						    すなわち「読む」というものは、
本や、言説、文章など、
大量の情報をある意味、
総体として抽象化し、
単純なものとして理解しようとするものです。
						    
						    この残存が、
						    
						    読むという総体として意識に概念化され残るのです。
しかしここで重要なのは無意識です。
総体として理解した意識下には、
消化、理解できなかった大量の情報が、
無意識の中で浮遊しているのです。
これはアートで言うと、
スーパーリアリズム的と解釈します。						    
						   
						  それと比べて「体験」というものは、
						    
						    非常に抽象度が高いものであると言えます。
それは体験というものが、
						    
						    そもそも概念化できないもの、
						    
						    つまり概念化できなという事は、
						    
						    「体験」というものに演繹性が全く無い。
						    
						    その様なことからも、
						    
						    「体験」が抽象度の高いものであると言えます。
しかし体験するという物理的空間には、
						    
						    大量の情報が存在しています。
						    
						    しかしまず人間の認知能力が、
認知できるものを制限し、
						    
						    その上で、
						    
						    人間は自らの必要な情報だけを認知しようとします。
						    
						    結果、
						    人間は最低限のものしか認知、
						    記憶していません。
						    
						    そしてこの意識の残存が、
						    
						    体験の総体として意識に概念化され残るのです。
						    
						    しかし体験でも、
体験の総体としての意識下には、
大量の情報が無意識の中に浮遊しているのです。
						    
						    
						    これはアートで言うと、
						    
						    キュビズム的と解釈します。						    
						  この様な「 読む」と「体験」の相対化から、
						    
						    どの様な事が浮かび上がってくるか、
						    
						    それは、
						    「読む」ということが、
						    
						    非常に抽象度が低いが、
認知を通す事により
、
非常に抽象度が高くなるという事。						    
						  「体験」ということが、
						    
						    非常に抽象度が高いが、
認知を通す事により、
非常に抽象度が低くなるという事。
						    
						    その様な事が浮かび上がってきます。
						    
						    
						    この事を理解しようとする時に、
						    
						    人間の認知構造を理解する必要があります。
それは、
						    「概念」と「体験」というものが、
						    
						    それ自体では自立できないという事の理解、
						    
						    それがとても重要であるという事です。						    
						  すなわち、
						    
						    「概念」と「体験」は不可分である。
						    
						    「読む」と「体験」は不可分である。
						    
						    その様な最低限の理解が必要です。
すなわち「人間」は、
						    
						    「読む」ことだけはできない、 
						    「体験」することだけはできない、
という事です。
						    
						    
						    この事をもっと端的に表現すると、
フラクタル的、
部分関数的、
その様に理解するといいと思います。						    
						  すなわち、
						    
						    「全体は部分であり、部分は全体である」、
すなわち、
						    
						    「読む」と「体験」は一つの総体としてあるのです。
本来この「読む」と「体験」は不可分なものですが、
常にこの関係を可分できると理解しているのが、
						    
						    一般的な世の中なのです。						    
						  先に記述した、
スーパーリアリズムとキュビズムですが、
						    
						    これはアートの文脈では切り分けられた様式です。
しかし、
						    芸術的な原理は同じなのですね。
						    
						    それは「読む」と「体験」の説明と同義です。						    
						  そもそもアートとは体験です。
						    
						    ファインアートは造形からの体験を原理としています。
私の書いている文章や言説は、
						    
						    演繹性からの視点で読む事を否定します。
私の書いている文章や言説は、
一つの総体としての造形の体験を肯定しています。
						   つまるところ、
私の文章や言説は、
						    
						    「読むという体験」を提供しているのです。
それは、
私の文章や言説は造形だからです。						    
						  これは最先端の試みで、
まだ芸術や美術として認められていません。
しかし、
最先端の映像インスタレーションなどは、
						    
						    この様な美術的レトリックを使っています。						    
						  例えば映像インスタレーションなどを理解しようとする。
その時に、
						    私のような立脚が絶対的に必要です。
この事をもっと原理的に表現すると、
						    
						    昨今、歴史や時間軸が問題になっていますが、
						    
						    これは一つの総体が存在しているという理解が必要で。
						   時間は刹那であり、
						    
						    刹那は時間である。
時間と刹那は一つの総体である。
						   この事を理解するのは、
						    
						    とても困難な事です。						    
						  私のウェブインスタレーションを、
						    
						    「読むという体験」という立場に立脚し、
						    
						    再度、読んでみてほしいですし、
今回シェアした記事の内容とも、
照らし合わせて熟考してみてください!!!						    
						   
						   
						  美学者母