No.303

ポピュリズムとポストトゥルースの
本質としてのファクト
(ファクト時代をどう生き抜くか)

text : mama(美学者母)
2019年1月30日(水曜日
)執筆

 

みなさまお世話になっております、
毎度おなじみ美学者母でございます。

今回書く文章は少し難しい話で、
皆様とどれくらいこの事を共有できるのか、
非常に心配なのですが、
是非熟読して頂きたい内容なのです。

 

私は芸術家、美術家、美学者、
など色々と名乗っていて、
基本的にまとめれば「アーティスト」、
まぁ「アーティスト」です。

しかしながら、
実際に社会に価値を提供し、
その代金をいただくという営利事業も、
直接私自身が行っていて、
この二つの間の「ジレンマ」と言いますか、
ある種の特性の違いというものが、
時に非常に厄介なものになってきます。

それは、
アーティストというのは、
基本的に自分のしたい事を、
一片の妥協もなくやりきる、
というものが最も重要な事ですので、
アーティストとして、
私が社会に提示したものが、
社会において価値があるかというと、
それは価値など全くないことがほとんどです。

そして私はアーティストとは別に、
事業者としても活動していますので、
それはアーティストとは違い、
いかに社会にとって価値のあるものを、
社会に提供するか、
そしてその価値の代わりに、
代金をいただき、
その代金をまた、
社会の価値に支払うことで、
経済というのは回っているわけです。

つまり現状の私を簡単に説明しますと、
「社会にとって価値の無いもの」と、
「社会にとって価値の有るもの」と、
同時並行的に行っていて、
これは完全なる「ジレンマ」の状態であり、
非常に難しい問題であるわけです。

この様な問題は、
多くのアーティストが抱えている、
「ジレンマ」なのではないでしょうか。

私も20年以上アーティスト活動をしてきまして、
この問題は常に私を悩ましてきたわけですが、
最近やっとこの「ジレンマ」に対する、
「答え」を見つけることができ、
それを皆様と共有したいと考えています。

これはあらゆる「ジレンマ」に応用できる、
その様な考え方であるので、
アーティストだけでなく、
あらゆる問題に使える考え方です。

特に現在のあらゆる事象、
例えば政治でのポピュリズム、
例えばメディアでのフェイクニュース、
例えば金融でのデリバティブ、
などです。

では具体的にアートの事例を紹介して、
簡単に説明していきたいと思います。

 

皆様がアートで知っているアーティスト、
誰がいますか?
例えばピカソ、ゴッホ、セザンヌ。

ウォホール、デュシャン、モンドリアン。

奈良美智、草間彌生、村上隆。

誰でも「ピカソ」くらいは知っていますかねwww

 

例えば日本人が1億2000万人位の人口で、
そのほとんどがピカソを知っているわけです。

しかしです、
そのピカソの芸術的な価値、
その原理や真理を知っている人は、
実際どれくらいいるでしょうか?
1万人いるでしょうか?
1000人いるでしょうか?
1億2000万人で考えたら、
いないと言ってもいいくらいです。

これはつまりどういう事を言っているかというと、
「芸術家ピカソの絵画を知っていて凄いのも知っている。」
というそれぞれの「ファクト」、
つま事実だけが存在しているわけです。

それはそれぞれの人々にとって、
「事実」という「体験」ですから、
疑いようのないものです。
私などは小さい頃、
冗談でわざと「グチャグチャ」に絵を描いて、
「ほらっピカソやで!!!」なんて遊んでいました。

これこそ私の「事実」としての「体験」です。

それは例えばウォホールのシルクスクリーンも同じで、
おしゃれな服屋とかカフェに飾られ、
ポップアートはお洒落なもの、
そんな「事実」としての「体験」。

例えば「モンドリアン」は、
一つのテキスタイルの柄として、
お洒落な「モンドリアン柄」として、
そんな「事実」としての「体験」。

例えば奈良美智の小さな女の子の絵画が、
「すごく可愛い」ので、
色々なグッズを皆んなが持っている、
そんな「事実」としての「体験」。

例えば草間彌生の水玉模様が、
「とっても可愛い」ので、
色々なデザインのベースに使われる、
その様な「事実」としての「体験」。

この様な事例を羅列いたしましたが、
そこから私が何を言いたいのか、
それは芸術としての「原理」や「真理」よりも、
「ファクト」、
つまり「事実」という「体験」こそが、
我々人間にとって「重要」であるという事です。

 

これを私は「次元の螺旋構造」と呼びます。
皆様にイメージしてもらうには、
まず「螺旋」をイメージしていただき、
その一回転目が「創発」、
つまり「原理」や「真理」の次元です。

そして二回転目以降が、
「原理」や「真理」を次元的に超えた、
「事実」としての次元です。

「事実」としての次元とは、
先述した、
ピカソやウォホール、 モンドリアン、
奈良美智、草間彌生、
などの「事実」としての「体験」なのです。

そしてこの「事実」としての次元には、
時間軸が存在し、
ある一定の時間的、
時代的経過を要します。

私の考えでは、
この「事実」としての次元の、
時間的経過が長ければ長いほど、
芸術としての「重厚性」は増していきます。

つまりこの様な文脈から何が理解できるのか、
というと、
それは芸術構造というものが存在している事です。

そしてその構造のベースには、
創発の次元、
つまり「原理」や「真理」が確かにあるという事です。

そこからある種「大衆」が、
別の次元で「認知」するまでには、
かなりのタイムラグが存在するのです。

またそのタイムラグで「大衆」が「認知」するまでの、
「螺旋」の回転数により、
「芸術」としての「重厚」さは増すのです。

ですから私の理論で言えば、
「芸術」に「即応性」「同時代性」が強いほど、
「芸術」としての「重厚性」は無くなっていきます。

さらにいうと、
「芸術」が「大衆化」されるというのは、
この「次元の螺旋構造」を持っている限り、
自明のことなのです。

これらの事象はあらゆる事で表層されます。
つまり「創発の次元」を一周回れば、
違う次元に移り変わります。

それはあらゆる物事にとって、
つまり時間軸を持つ存在にとっては、
避けては通れないものであり、
それが正に、
「ファクト」、
「事実」としての「体験」なのです。

人間にとって、 「体験」というものほどに、
「原理」や「真理」を感じてしまうものはないのです。
つまり私たちは、
「原理」や「真理」を持つ「体験」そのものを、
乗り越えていかなければならない時代に居るという事です。

 

それはどういうことか、
ここは非常に重要です。
創発の次元としての「原理」や「真理」、
体験の次元としての「原理」や「真理」、
それらは「次元の螺旋構造」に存在する、
この二律背反する二つの「原理」や「真理」の間を、
次元を超えて「螺旋」を自由に行き来する。

その様な「超越的な作法」が必要な時代なのです。
しかしその「次元を超越的」に行き来するのは、
非常に困難な作法です。

それをある種簡易に実現させるものが、
「アイロニー」であると私は考えています。
私がお勧めする「生き方」とは、
この二律背反する二つの「原理」や「真理」の間を、
「アイロニー」という方法で、
丁度中間あたりを上手く生き抜いていく、
それこそが、
「現代に生きる我々の作法」なのだと確信しています。

どうぞ皆様も実践してみてください。

 

 

 

 

美学者母

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓