No.323

神秘とは何か?天才とは何か?
日本の芸術や美術が
知を放棄しているワケ
(知の放棄こそが権威を生み出す仕掛けである)

text : mama(美学者母)
2019年5月16日(木曜日
)執筆

 

どうもぉ美学者母です!!!
まず何より私が作成した図表を見てください。

この図は、
日本の芸術や美術が、
いかに「知」というものを放棄しているのか、
それを明確化する為の図表です。

その上で、
一般的に日本人が信じる、
「芸術や美術」が知を放棄している事を、
論じると共に、
「神秘」や「天才」という、
ある種日本人が大好きなキーワードを、
同時に論じていく試みです。

 

まず世界的にスタンダードな、
アートの捉え方として、
図表の「本質的アート」を参照ください。
アートというものはあくまで「知」をベースに、
それは私たちの「論理的」「演繹的」、
その様な「知」を最大限。
知り得るものを知り得た上に存在する。
その様な事をこの図表は表しています。
そして、 知り得ぬものを「神秘」とし、
「知り得ぬもの」と「知り得るもの」、
その間に、
「知り得るもの」として、
「造形」が表出し「認知」する、
その様な行為、
体験こそが「芸術であり美術」なのです。

しかし図表でも理解できる通り、
一般的な日本人や日本のアーティスト、
そのほとんどは、
「芸術や美術」には、
「知」は必要では無いと考えているわけです。

それは、
日本の芸大美大の教育を見れば明らかです。

 

つまり日本の「芸術や美術」は、
「知を放棄」しているのです。
それが図表で観る、
「本質的アート」と「日本的芸術美術」、
その対比となるわけです。

 

僕は本当に日本の美術や芸術を、
笑ってしまうのは、
日本の芸術美術関係者のほとんどが、
芸術や美術は「感性」や「感情」、
そんな「言葉」や「概念」、
では表現できないものを表現するのだ、
と口を揃えていうのですwww

それが図表で表した通りです。
それは何を表しているのか、
見ての通り、
「知を放棄」する事で、
「神秘」の領域は異常に低下します。
まさに日本の「芸術美術」の現状は、
これに表された通りであり、
「日本的芸術美術」では「神秘」、
の領域が、
「本質的アート」からみれば、
「知の領域」に他なりません。

私はこの「神秘」の考え方そのものが、
「日本人のアートの勘違い」の原理なのだと、
研究を重ねてきて理解しました。

そしてこの神秘理論をもとに、
「アウトサイダーアート」や、
いわゆる「天才」というものも、
定義づける事が出来るのです。

それは図表を見ていただければ理解できます。
それはアウトサイダーには、
「知」を超えた「飛躍」というものが、
そもそものベースとなっています。

それがまさに、 「知」をベースとせず、
論理的に演繹的根拠無く突如現れる、
それを私たちが「神秘」として認知する、
それこそが「アウトサイダー」の論理です。

そして論理的には、
「アウトサイダー」と「天才」は、
全く同じ構造ですが、
その「飛躍」の程度によって、
それは違ってきます。
それが図表で観る様に、
「天才」が生み出す「飛躍」は、
「知」をベースにした神秘と、
同じ「神秘」を「共有」しているところです。
つまり「知」をベースにした 先述した神秘、
知り得ぬものを「神秘」とし、
「知り得ぬもの」と「知り得るもの」、
その間に、
「知り得るもの」として、
「造形」が表出し「認知」する、
その様な行為、
体験を「天才」は「飛躍」によって、
実現してしまうのです。

 

この様な事から何が理解できるのかというと、
日本人は「芸術美術」に対して、
「天才願望」が自明なのです。
しかし私は知り得る限り、
例えばマルセル・デュシャン、
ピカソ、マティス、 色々な歴史上、
そして同時代に様々な作家や作品を、
観て分析していますが、
「天才」である人間を観た事がありません。

しかしある部分で、
「アート」=「天才」という物語を、
私たちに与えてくれるのが、
様式や運動としての「印象派」であり、
その物語の登場人物「ゴッホ」であるのです。

しかしそもそも、
「印象派」自体が「知の探求」としての、
様式や運動であるわけで、
その日本人の物語は幻想である事が自明です。

 

この様な論理的な考察から言えることは、
そもそも「天才」などいない、
という非常に当たり前の答えなわけです。
しかし日本の芸術美術関係者は、
この当たり前の現実を受け入れたく無いのです。

それはその事自体が、
「権威」を崩壊させてしまうからです。

権威とは幻想です。

権威の本質とは「天才」の構造なのです。
「天才」に観る「神秘」こそが「権威」なのです。

私がここで、
「アート」における、 「天才」や「神秘」、
その上での「権威」を否定しても、
日本の芸術美術関係者は受け入れないでしょう。

それを受け入れてしまえば、
日本の芸術美術の根幹が壊れてしまいます。

芸大美大の教育まで根本から変えなければならない、
これこそが日本の、
「最大最後のブラックボックス」なのです。

 

私はこの言説を日本の芸術美術関係者にむけて、
書いているのではありません、
むしろ芸術美術に関係の無い人に、
いかに日本の芸術美術関係者が馬鹿なのか、
理解してもらいたいのです。

日本で言われる、
芸術美術の「神秘性」は嘘であり、
「知」をベースにした、
「神秘」こそ、
本質的なアートである。

その事が、
「アート」であるという自明が、
当たり前の日本になるよう、
これからも活動してまいります。

 

 

 

美学者母

 

 

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