No.335

不自由なあいちトリエンナーレ2019で
一番自由だったのは
芸術監督の津田大介だったwww
(現代美術の巨匠マルセル・デュシャンから
学ぶアートの自由の作法)

text : mama(美学者母)
2019年8月4日(日曜日
)執筆

 

表現の自由〜
表現の自由〜
表現の自由〜

ん?なるほど、 ネットで見た言葉、
「現代美術の周回遅れ感」って凄いわかるwww
なんやろあの前時代感www
あのセンスの無い感じ。。。

「表現の自由」って、
「表現の不自由」の向こう側にあるのが基本。

現代美術の巨匠マルセル・デュシャンの泉って、
世界で最も偉大な作品って言われてるのだけれど、
あれってどんな作品か知ってる?

デュシャンが展示委員している、
無審査であるニューヨーク・アンデパンダン展で、
排除された作品なんだな。

つまり作品が排除される事態も、
自らの作品のコンテクストへと組み込む、
その様な作品や作家の剛性があるわけ。

 

それで「表現の自由」の話なんですが、
僕達アーティストは常に「自由」なんです。

そもそも、
僕達アーティストの「表現の自由」を、
誰も抑止できる訳が無いwww

もし僕が拐われて身体中ガチガチに束縛されても、
誰も僕の思考を束縛することはできない。

そして僕達は常に何かに束縛されている、
それは世間体かもしれないし、
自らの思い込みかもしれない、
「人間はそもそも不自由」なのだ。

人間は不自由だからこそ、
「自由」を獲得しようとする生き物だ、
「自由」は決して「与えられる」ものでは無く、
「勝ち取る」ものだ。

今回の「あいちトリエンナーレ2019」でも、
なぜ「表現の自由」を「与えて」もらおうとするのか?

「表現の自由」を「担保、保証」してもらおうとするのか?

その思考センスがダサすぎるのである。
なぜあんなに脆弱でひ弱な表現に、
「表現の自由」を獲得する事が逆にできるのか?

 

万人が同じで、
自分の我をただ通しても、
それが全て通らないのを誰しもが知っているから、
ただワガママな作品への排除の動きは広がるのである。

 

そこにアイロニーやジョーク、
アートとしての重厚さ次元、
様々なテクニックを使えば、
万人が鑑賞できる強度の、
同じ様な思想信条の作品は作れるのだ。

僕は今回の事態は非常に幼稚な出来事だと、
認識している。

初めから万人が不快に思うであろう事を、
容易に想像できるものを、
自分のワガママで表現し、
それが排除されたら騒ぐって、
これ完全に子供のだだっ子でしょ。

 

少しでも頭がまわる大人なら、
その不快をコントロールし、
いかに己の意図した事を、
できるだけ表現するのか考える。

ストレートに表現する事が表現?

これは完全に間違っている。

そもそも美術は、
造形を媒介して表現するわけだから、
美術の本質は抽象度を上げて、
いかにその体験に臨場感を与え、
芸術体験させるのかというのが本質である。

 

その様な意味で、
今回の「あいちトリエンナーレ2019」で、
それを実行できていた唯一の人が、
芸術監督の津田大介である事は間違いない。

撤去されることまで加味した表現としては、
最高の物語、
コンテクストを形成した。

 

そういう意味で言えば、
「芸術監督津田大介のあいちトリエンナーレ2019」は、
アイロニーに大成功したと言える。

しかしそれは、
「あいちトリエンナーレ2019」に参加していた作家、 作品、
その他税金や関わった人々、
全てを犠牲にしてできたものだということ。

 

まぁこんなダサい事してるから、
いつまでたっても日本で現代美術、現代アートが、
広がっていかないわけです。

まずもって私たち人間は、
常に何かに囚われて生きているのであって、
特に自分で自分の自由を制限しているのである。

 

例えば今回の事で言えば、
その様な表現でしか「表現の自由」を、
獲得できないという思い込み。

まずその様な思い込みから、
「自由」になるべきであろう。

 

 

 

 

美学者母

 

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