No.338

あいちトリエンナーレとか
日本のアートそのものが権威主義なのであって
都合よく民主的な
表現の自由を訴えるのはナンセンス
(民主的な表現の自由とは何か?)

text : mama(美学者母)
2019年8月10日(土曜日
)執筆

 

僕の様な無名で何の力もない、
一人のアーティストからすると、
そもそも日本アート界自体が権威主義なんだねwww

例えば「あいちトリエンナーレ2019」は、
芸術監督の津田大介がキュレーション、
してるわけでしょ?
それで70組くらいアーティストが選ばれている。

もうその時点で権威主義だと僕は考えるわけ、
だって僕が「あいちトリエンナーレ2019」に参加したい、
って思っても参加できないわけでしょ?
そして「あいちトリエンナーレ2019」は、
公共事業であるわけだから、
当然僕にも参加する、
そして「あいちトリエンナーレ2019」で、
「表現」する「表現の自由」があるはずだwww
少なくとも公共事業で、
税金を使い民主的な「表現の自由」を、
この事態で訴えるなら、
僕達無名で何の力もないアーティストが、
「民主的」な「表現の自由」を、
「あいちトリエンナーレ2019」で、
「表現」する「権利」が、
そもそもあるはずで、
その「民主的」な「表現の自由」が、
津田大介という芸術監督がいる事で、
「阻害」されているのは間違いない。

となると、
この「あいちトリエンナーレ2019」は、
芸術監督津田大介にキュレーションされている事で、
少なくとも「民主的」な「表現の自由」の権利を、
訴える立場に無いと言える。

別に無名で力の無いアーティストが、
「表現」できないからって、
「被害妄想」を抱いているわけでもなく、
「あいちトリエンナーレ2019」そのものが、
一人のアーティストとして考えると、
それ自体が「権威主義」なのに、
都合のいい時だけ、
「民主的」な「表現の自由」を訴えるのに、
とても矛盾を感じ、
都合のいい時だけ、
「民主的」である事を使うなと言いたいわけです。

もっと簡単に言うと、
「あいちトリエンナーレ2019」が、
そもそも、
「民主的な表層」と言えるのか?
それとも、
「権威的な表層」では無いか?

 

右翼的な「体制」と言うものにも、
当然「権威者」はいるわけだが、
左翼的な「反体制」の、
「権威者」と言うのも、
現代においてはいるわけです。

現代の日本においては、
その辺はフラットな社会だと感じています。

例えばアートで、
「民主的な表現の自由」を考えた時に、
「アンデパンダン」という考えがあります。

それはどんなアーティストでもどんな作品でも、
参加できる展覧会です。

僕はそもそも、
トリエンナーレやビエンナーレ、
それ系統のイベントには、
ずっと否定的です、
僕の過去の文章を掘り返してみれば、
理解できると思いますので、
本当か確かめたい方は、
過去の膨大な僕の文章をお読みくださいwww

 

つまり、
トリエンナーレやビエンナーレは、
あくまで「イベント」であり、
「エンターテイメント」であるわけです。

それは芸術監督やキュレーターが存在し、
一定のコンセプトやテーマを持ち、
そのエレメントとして、
アート作品っぽいものを集めて、
その全体としての完成度を高めるわけですから、
一人の作家としての、
芸術表現は、
一つのアトラクションに過ぎず、
それは一つの「テーマパーク」であり、
「祭り事」なわけです。

そもそもの前提として、
「芸術」や「アート」は、
そもそも「スケール」を前提に、
「表現」されるものではなく、
「一人の人間」の、
「非常に高貴な営み」である、
僕はその様に考えているわけですね。

 

ですから、
この様に「テーマパーク化」されたものは、
大前提として「芸術」や「美術」、
「アート」にはなり得ないというのが、
私の考えです。

その様な文脈からも、
例えば「チームラボ」なども、
私は批判していますし、
私の文章を読んでいる人は、
理解されていると思います。

 

最後にまとめ。

 

そもそも「あいちトリエンナーレ2019」は、
「アート」「芸術」「美術」では無い、
そして「あいちトリエンナーレ2019」に、
展示された作品もまた、
「アート」「芸術」「美術」では無い、
それは「テーマパーク」である、
「あいちトリエンナーレ2019」という、
アーキテクチャに定義されると同時に、
「個としての作品性」を消失するからである。

また「あいちトリエンナーレ2019」自体も、
芸術監督が70組程度選んでいる事からも、
全く「民主的」ではなく「権威的」であり、
今回の問題は、
「権威」と「権威」の「ヘゲモニー争い」であり、
なんら「民主的な表現の自由」を、
訴えるに値しないものである。

またこの様な「左翼的権威」の特徴として、
自ら都合のいい時は、
「民主的」であり、
「民主主義」を都合良く使う、
今回の「あいちトリエンナーレ2019」が、
大炎上し大問題になったのは、
この左翼的御都合主義が、
都合良く「民主的表現の自由」を、
使おうとしたが、
それを「民主的表現の自由」としてではなく、
むしろ「左翼的権威」として、
日本国民が受け止めたからなのである。

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

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