No.340

いつもアートは感じるものだって言ってる人の、
あいちトリエンナーレ2019での矛盾
(アートは知性と教養、
深い洞察によって得ることのできる
人間の本質的体験なのである)

text : mama(美学者母)
2019年8月15日(木曜日
)執筆

 

今回の「あいちトリエンナーレ2019」の大炎上、
これは大勢の人々が、
「アートを感じる」事で、
「大炎上」になったわけね。

 

僕のネットで繋がってるアート関係者の多くが、
左翼的思想のアート関係者が多いわけだけど、
その人たち皆んなが普段は、
「アートは感じるものだ!!!」って、
言ってる人なのねwww

でも今回の、
「あいちトリエンナーレ2019」の、
例えば「慰安婦像的な作品」とか、
「昭和天皇の写真を燃やす作品」とか、
に関して「考えろ」って言うのね、
あんたたち、
さすが左翼御都合主義のダブルスタンダードだね、
って思っちゃったわけ。

 

僕の考えるアート鑑賞の作法ってのは、
知性と教養、深い洞察、
そしてそれをベースにした、
情報を超えた圧倒的な体験、
それが作法であり、
アート鑑賞の本質だと、
もう何十年も言ってるのですね。

 

だから最低限の知性や教養は、
アート鑑賞にはなくてはならないものです。

では日本の「アートは感じろ」的な、
そういった間違った鑑賞方法を広めた人たちって、
日本のアート関係者、
つまり左翼御都合主義のあんたらなんだよwww

あんたらが「アート」「芸術」「美術」ってのを、
「理解不能」にする事で、
それらの「利権」を確保してきたんでしょ?

一般人にはわからない様にして、
本当に理解する為に必要な、
知性、教養、洞察力を、
「ブラックボックス」にして、
ここまでやってきたわけだ。

 

そして「あいちトリエンナーレ2019」で、
鑑賞者たちは、
あなたたちが誘導してきた鑑賞術で、
鑑賞したが、
誰も「慰安婦像的な作品」、
「昭和天皇の写真を燃やす作品」、
それらを芸術だとか美術だと、
「感じ取ることができなかった」わけだ。

 

私は今回の事件が、
「左翼御都合主義アートの終焉」、
「感じるアートの終焉」、
「日本の前時代アートの終焉」、
だと考えているわけです。

つまり印象派が輸入されて、
アートという概念が日本に入ってきてから続く、
「感じるアートの終焉」である。

またその中心人物が津田大介であるという事。

 

今回皆さんもお気づきかも知れませんが、
私は問題の作品にの内容ついて一切触れていません。

それは今回作家性を持った作品そのものが、
「被害者」であるという考えがあるからです。

どんな意味を持った作品でも、
作家性を持った作品に対して、
私は敬意を払っています。

では今回芸術監督の津田大介に、
一人一人の作家作品に敬意があったのでしょうか?
まず答えから言うと、
「まったく無い」、
さらに言うと、
自分自身の政治思想を、
あいちトリエンナーレ2019で具現化する為に、
アート作品それぞれの表面性を切り取り、
ツギハギし、
張りぼての津田大介の、
政治思想としての「立て看板」を立てた、
それがまさに、
「あいちトリエンナーレ2019」なのです。

 

つまり、
今回「あいちトリエンナーレ2019」に、
参加した作家作品は「被害者」であり、
津田大介の政治プロパガンダに使われたのです。

そしてこの津田大介の企てが、
政治とアートの捻れを起こし、
「表現の自由」という論点に収束し、
国際的な問題に発展しているわけです。

今回の一連の騒動は、
「日本のアートの闇」が、
長年の時を経て表層化し、
「アート」のブラックボックスが、
解き放たれる事件になると考えています。

 

印象派が日本に入ってきて、
アートという概念が、
「美術」になった時から、
「アート」は感じるものだという、
「偽アート」が自明性を、
現在も持ち続け。

またその自明性を利用し、
アートの名の下で、
「政治プロパガンダ」を、
芸術監督として、
「あいちトリエンナーレ2019」で、
実行した津田大介。

 

これはまさに、
「西洋のアート」を、
うまく利用してきた、
「日本のアートの癌」の集大成なのです。

 

ですから今回の問題は、
その作品その作品の問題ではなく、
その作品その作品の一部分を、
津田大介が自分の思想に基づき、
文脈化し、
そのコンテクストが、
「政治的プロパガンダ」だった事、
それが一番問題だったのです。

 

そしてそれは、
「アートは感じる事」という、
日本のアートに対する「自明性」をベースに、
その様な「アートの素地」を利用し、
津田大介は大衆に対してプライミングしようと、
試みたわけですが、
これがまさに、
「アートのブラックボックス」であり、
「アート」という理解不能なものだから、
「許されるのだ」という、
ある種の「詐欺」を、
津田大介は日本の国民に仕掛けたわけです。

 

しかし津田大介が考えているほど、
日本の国民は馬鹿ではなかった、
これは「地域芸術祭」などではなく、
「政治的プロパガンダ」であると、
日本の国民が怒り炎上した、
これが私の今回の一連の考察です。

 

私はこの事件と共に、
日本のアートの「ブラックボックス」が、
崩壊する事を望んでいます。

日本のアートの「権威主義」、
日本のアートで「権威」を持ってる奴らなんて、
本当に何も理解していないし、
むしろ「無知」です。

 

皆さんにはぜひ、
今回の「あいちトリエンナーレ2019」で、
目を覚まして欲しいと考えています。

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

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