No.344

純粋芸術の原理としての社会との合意点
(芸術の為の芸術は無意味であり
それは純粋芸術では無い)

text : mama(美学者母)
2019年9月21日(
土曜日)執筆

 

はい、芸術の秋!!!
先日ビルボードライブ大阪で、
久々に生演奏を聴いて、
芸術を体験してきました美学者母です。

 

それでいきなり表題の話に入りますが、
私も20年以上芸術活動に取り組んできまして、
特に肌で感じますのが、
日本においての「芸術」というもの、
特に「純粋芸術」、
つまり「造形芸術」、
まぁ「美術」において、
「芸術」の為の「芸術」をする事が、
「純粋芸術」であるとの思い込み、
それを強く感じ、
また実践されている方々を観てきたわけです。

むしろそれが日本では自明な事であり、
それは「美術」の世界だけでなく、
例えば「哲学」や「科学」、
はたまた「ビジネス」などの世界でも、
幅広く言える事だと考えています。

 

そもそも私たちは、
何のために「美術」をするのか?
それは他の分野でも同じですが、
それは例えば、
そもそも私たちは、
何のために「生きて」いるのか?
その様な問いにも繋がってきます。

私たち人間は往往にして、
根本的な目的を差し違えてしまっているのです。

現在の日本の「美術」もまた、
「芸術」の為の「芸術」が「純粋芸術」である、
その様な差し違えを起こしているのです。

 

本来「美術」というものは、
原始美術から古典、近代、現代、
どの時代にも「機能」というものを、
有していたわけです。

原始なら呪術的機能、
古典なら宗教的機能、
近代なら思想的機能、
現代なら金融的機能。

常に「美術」というものは、
社会との接点、
つまり「社会との合意点」で、
その主たる社会において、
「機能」を有していた事が理解できます。

 

それはこの世界の真理であり、
「そのものがそのものだけで存在し得ない」、
つまり世界に存在するとは、
常に「相対的」であるという事が真理なのです。

つまり「美術」は「美術」だけでは、
存在し得ない事が理解できます。

それは「美術」というものは、
どの時代にも「実利的機能」を、
社会に有しているという原理なのです。

 

しかし現在の日本での美術は、
この「実利的機能」を有していない、
そういう事が「純粋芸術」であり、
「美術」であると思い込んでいるわけです。

その上でなぜ「現代アート」や「現代美術」、
と言われる現在の美術が、
日本人に受け入れられないのか、
その様な側面が浮き彫りになってきます。

つまり、
「現代アート」や「現代美術」は、
「金融」という「実利的機能」を原理に、
「純粋芸術」を成立させているからです。

それは「純粋芸術」から「実利的機能」を廃し、
「芸術の為の芸術」が「純粋芸術」である、
その様に思い込んでいる「日本人」からすれば、
それは受け入れ難い「現実」なわけです。

 

しかしこの日本人の、
「純粋芸術」は「芸術の為の芸術である」という、
その思い込みが、
「日本の純粋芸術」の明らかな「衰退」、
の大きな原因だと考えています。

ですから日本においての「純粋芸術の復興」というのは、
まず「純粋芸術」における「社会的機能」、
それが「純粋芸術の原理」であるという認識、
それを文化として受け入れていかなければなりません。

 

しかし日本人にとって、
「純粋芸術」の原理としての「金融」という、
「芸術構造」は、
日本人にはなかなか馴染まなものであることは、
私も20年以上芸術の活動を行なって、
実感としてあるわけです。

 

そこで私は、
この20年以上の芸術活動を通して、
自分の「純粋芸術」としての作品に、
どの様な「社会的機能」を持たせるのか、
その様な模索を行なってきました。

初めはギャラリーや美術館、
その様なホワイトキューブでの展覧会、
などコンサバティブな活動もしたわけですが、
私にとってそれは空虚感しかありませんでした。

なぜならその様なギャラリーや美術館での、
展覧会というものが、
現代において社会的機能を果たしていないからです。

この様なホワイトキューブが、
機能を果たした時代もあったでしょう、
少なくとも現代の日本において、
ギャラリーや美術館は、
社会的機能を何も果たせなくなっている、
そう私は考え、
それから一切展覧会などをしなくなりました。

 

その理由は、
「純粋芸術」には「社会的機能」という原理、
それがあるからであり、
少なくとも私は、
「純粋芸術」というものを追い求めているからです。

そこから私は、
「私自身の純粋芸術」と「社会」との、
「合意点」を見つけようともがき苦しむわけです。

その様な中から産まれてきた「様式」が、
「言語に造形性を観る」という、
「言語アート」という「様式」で、
これはインターネット上の言語に、
造形としての言語を見出したもので、
2010年に「ウェブアート宣言」として、
発表しています。

これは正に、
「言語」「言説」という「社会的機能」を有した、
私自身の「純粋芸術」であるわけです。

 

更に、2016年頃に、
狭山美学校というものを設立し、
民宿の経営を始めたわけですが、
これは実際の内装や演出、
その中に設置する作品、
またそのアーキテクチャ、
全て含めて美学者母と相方哲学者大和の、
「純粋芸術」であるわけですが、
「社会的機能」としての「民宿」が、
「純粋芸術」の「原理」としてあるわけです。

 

私はこの様に「純粋芸術」を成立させる為の、
「社会との合意点」というものを、
長い年月をかけ模索してきたわけです。

では「純粋芸術」と「応用芸術」の違いは?
と皆さんは聞きたくなるのかもしれません。

しかし簡単に解答する事ができます。

それは「基礎研究」と「応用研究」の違いと同じです。

つまり「純粋芸術」とは、
まだ誰も発見していない、
「純粋芸術」と「社会」との「合意点」を、
「発見」しそれを「実践」する事なのです。

「純粋芸術」とは、
アートそのものをパラダイムシフトさせる事であり、
私自身はそのダイナミズムに魅了され、
「純粋芸術」を追い求めているわけです。

 

 

 

美学者母

 

 

 

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