少なくとも一人のアーティスト、
アート活動をしている人間として言うと、
「表現の自由」なんて考えもしないし、
はっきり言ってどうでもいいwww
それはなぜか、
国の憲法や法律がどうとか、
自分が警察に捕まろうが、
誰かに訴えられようが、
僕は、
「自分が表現したいものは絶対に創る」
のであって、
「表現の自由」なんてどうでもいい。
例えば日本でキリスト教が禁止されてた時に、
「隠れキリシタン」がいたわけで、
すなわち表現とはそういう類のものであるわけです。
それはどういう事かというと、
つまり主体をどこに持つのかという事、
例えば「隠れキリシタン」は、
「己の信仰」を守ってそれを「表現」していた。
それは「信仰の主体」が「個人」にあり、
「個人」としての「信仰」、
「
個人の表現の自由」を守ったわけだ。
しかし今問題になっている、
「あいちトリエンナーレ2019」で問題になっている、
「表現の自由」って全然違うよね、
もはや「表現の自由」というスローガンの為の運動で、
そこには「個人」としての「表現の自由」は関係ない。
体制と反体制という構図を演出して、
「表現の自由」というスローガンを利用し、
ただ「体制批判」したいという、
もう「芸術」とは程遠いものであるわけです。
正に日本の「戦後体制」「戦後教育」の、
行き着いた場所というべき「あいちトリエンナーレ2019」。
僕の言葉で言えば、
現在もアーティストと呼ばれる人々は、
1970年代前後のベトナム反戦運動などの時代、
つまりウッドストックに代表されるロックや、
ヒッピーのムーブメントを、
いまだに展開しているというかなり、
時代が遅れている人達なんだねwww
それを「ロックの時代」の人々と言ってるわけ。
そしてそのロック自体の様式も、
観客とステージは分離され、
ステージは観客よりも高く、
バンドセットという演奏を必要とする、
つまりある種の演奏というものを学ぶという事は、
エスタブリッシュメントを意味し、
その様式は正に「体制」と「反体制」という、
構造を作り出しているわけなのです。
それに反し、
現在の若者たちというのは、
「ヒップホップの時代」の人々なわけです。
そして僕は1978年生まれですが、
日本のヒップホップ黎明期から、
ヒップホップカルチャーに属し、
実際にグラフィティライターをしていました。
この「ヒップホップの時代」の人々は、
「ロックの時代」の人々とどう違うのか、
それは「ロック」というのは「夢想」を歌うわけですが、
「ヒップホップ」は「リアル」をラップするわけです。
それは哲学思想的に言えば、
「プラグマティズム」的であると言えます。
現在の世界を考えてもそうですが、
日本の若者達ももれなく「実利」を、
「意味ある事」として生きているわけです。
「ロック」の様に「夢想」を歌っていても、
「世界は変わらない」事を知っているのです。
またヒップホップ時代の様式も、
ロックとは違い、
まず演奏を必要としません。
更にラッパーと観客との間には、
ステージという段差は無く、
誰もがラッパーとして、
ラップし始めることができる。
その様な様式は、
ロックの様に「体制」と「反体制」という、
「分離」では無く、
それぞれの個人が「主体」として、
時には「観客」になり、
時には「ラッパー」になる。
すなわちそれぞれ「個人」が、
その現場の「当事者」であるわけです。
この様な事は決して「アートの世界」でも、
例外ではありません。
例えばバンクシーを考えてみてください。
バンクシーは「アートの世界」でも、
非常に重要なアーティストですが、
彼はヒップホップカルチャーの、
グラフィティライターなのです。
彼はイギリスはもとより、
世界中の壁に落書きをしています。
それは正に「犯罪」であるわけです。
しかしバンクシーのその落書きは、
貴重に保存されたり、
その壁ごとオークションで売られたり、
その壁が観光名所になったりしています。
ではバンクシーにとって、
「表現の自由」とはなんでしょうか?
それは、
バンクシーにとって「表現の自由」なんて、
どうでもいい事です。
「表現の自由」そのものが、
国家の理念であり意志なわけです。
そもそも「国家自体が夢想」であり、
その「夢想である国家」が持つ、
「理念や意志」もまた「夢想」なのです。
それよりも、
現実的に自分自身が、
国の憲法や法律がどうとか、
自分が警察に捕まろうが、
誰かに訴えられようが、
どう世界に、
どう社会に、
影響を与えるのか、
どの様な「機能」を有するのか、
それが「ヒップホップの時代」では重要であり、
「リアル」に「アクション」する事こそが、
「善」であるのです。
「もはや時代遅れである」
悲しい事に、
アーティストというのは、
世の中で誰よりも早く、
時代というものを読まなければならない、
そいう存在であるわけですが、
現在の日本のアーティストというのは、
よりいっそう「時代遅れ」である、
その様な現状です。
先日文化庁が補助金を停止する、
その様な事でまた、
「表現の自由」の侵害だとか、
まじ日本のアーティストたち、
真面目に頭を使って本質を考えようwww
まさに現在の「あいちトリエンナーレ2019」での、
「表現の自由」というものが、
「プラグマティズム」的な目的の転移を起こしている。
「表現の自由」の為の「表現の自由」、
目眩がするほど時代遅れ。
「表現の自由」なんか糞どうでもいい、
バンクシーでも例え話をしたのだが、
「表現の自由」という言葉や意味、
概念に囚われている事こそ、
「本末転倒」である事になぜ気づかないのか?
これを読んで頂いた方々には、
ぜひ「表現の自由」という言葉や意味、
概念の外側へ世界を広げてほしい。
美学者母