No.347

芸術ってなんやねん!!!
って誰も答えを持ってないから、
俺が定義してやってるんだよ。
(あいちトリエンナーレ2019から考え直すべき
芸術的インフォームド・コンセント)

text : mama(美学者母)
2019年10月11日(
金曜日)執筆

 

最近のニュースで、
あの問題になっていた、
「あいちトリエンナーレ2019」の、
「表現の不自由展」含め、
全面的に再開するという事です。

まぁ僕からすると、
前時代的な争い?闘争?で、
「非常にくだらない」わけです。

 

この件で僕が直接的に受けた被害とすれば、
僕も一応「アーティスト」と名乗っていますので、
その「アート」が、
この社会で「信用」というものを無くし、
「芸術」というものを、
また一段と理解できないものにしてしまった、
その影響で、
私もその様な「アート」という、
得体の知れない「モノ」をやっていると、
一緒に観られてしまうという被害です。

 

少なくとも私は「アーティスト」と、
名乗っていますが、
「あいちトリエンナーレ2019」に、
出品している様なアーティストとは、
完全に別次元に存在していますし、
「アート」に対する「スタンス」も、
全く違うので、
改めてしっかりと、
その違いをお示ししておきたいのです。

 

まず僕は、
「アート」の「論理的理解」、
「アート」の「定量的評価」、
その様な、
そもそも「アート」をどう定義するのか?
そもそも「アート」をどう理解するのか?
その様な事を、
「普遍的」に研究し、
これまで「発表」してきています。

ではなぜ今回の様な「あいちトリエンナーレ2019」、
の様な事件が起こってしまうのか?
それはまさに、
「論理的」「定量的」に扱おうとしないからであり、
日本では特に、
「芸術」というものは、
その様なものでは計れないと思い込んでいる、
その上で「誰も芸術を定義できない」わけですから、
当然これは「芸術」なのか?
という疑義が生まれる事は当たり前の現象です。

少なくとも私は、
「論理的」「定量的」に考え得る事は、
「考え尽くす」ことが絶対的に必要であり、
そもそも「考える」事を「放棄」することが、
「芸術」に対する「真剣で真摯」な態度だとは、
理解できないのです。

私たち芸術家、アーティストは、
「おそろしいほど真剣に芸術を考えなければならない」、
そう考えているのです。

 

現在のほぼ全ての芸術家やアーティストは、
自らの作品が、
なぜ「芸術」なのかという事を、
芸術家やアーティスト自身が「理解」していないのです。

それは日本では自明の事柄ではあるのです、
例えば日本で芸術家、アーティストとして、
地位を確立していく上では、
組織や権威によって価値づけられ、
その組織や権威によって、
「芸術家」や「アーティスト」という、
ある種「免罪符」を手に入れるわけです。

つまり自分では、
自分の作品がなぜ「芸術」なのか理解しないまま、
「芸術家」や「アーティスト」になっています。

 

対照的に私「美学者母」はどうでしょうか?
私は「組織」や「権威」に、
全く「価値づけ」されたこともありません、
また「組織」や「権威」に、
君は「芸術家」とか「アーティスト」などの、
「免罪符」をもらったわけでもありません。

では僕は一体なんなのか?
それは自ら「芸術構造」などを研究し、
「アート」や「芸術」を、
「論理的」に理解し、
「定量的」に価値づける事を、
自らで自らの作品に行う事で、
「芸術」を「成立」させているわけです。

 

その内容はこの様に文章で社会や世界に、
「オープンソース」にし、
「芸術」を「民主的」に「成立」させる、
試みでもあるわけです。

現在の現代アート、現代美術では、
このアートの構造というものを、
自らの口で語るという事は非常に重要です。

なぜならば、
現代アート、現代美術では、
作品は「金融商品」ですから、
例えば「金」や「ダイヤモンド」と同じで、
金の物質的構造、
ダイヤモンドの物質的構造、
それが真贋を決定する様に、
現代アートや現代美術にも、
「芸術構造」が絶対に必要であり、
それがあるからこそ「金融商品」になり得るのです。

ですから、
日本以外特にアメリカなどでの、
美術教育というのは、
いかに自分の作品が「芸術」であるのか、
その様なディベートが重要視されています。

 

最後にまとめ、
現在の日本のアート業界に全く足りないのは、
芸術家、アーティストが、
自らの作品が「芸術」である事を、
「論理的」に「定量的」に、
自らの口で社会や世界に説明しない、
むしろ説明しない事が美徳であり、
それこそが「芸術」なのだ、
その様な間違った、
現在での「アート」の認識が、
今回の「あいちトリエンナーレ」での、
「表現の不自由展」などの事件にも、
繋がってくるわけです。

そして、
例えば「表現の不自由展」で展示された、
問題の作品群が「芸術」であるならば、
それはその「芸術構造」を、
「論理的」「定量的」に説明する義務が、
「芸術家」や「アーティスト」に求められる。

そしてその「芸術構造」が、
ある種社会や世界との、
「芸術的インフォームド・コンセント」として、
「合意」を得たときに初めて、
現代においての「芸術は成立」するのである。

 

最後に、
私の目には今回の「あいちトリエンナーレ2019」、
での「表現の不自由展」の作品群は、
「アート」や「芸術」、
「アーティスト」や「芸術家」、
その様な「免罪符」を「乱用」している様にしか、
見えないわけです。

「表現のプロ」であるならば、
「表現」を「自由」にもっと使えるはずで、
「表現に不自由」な「人々」の作品を、
「表現の不自由」というのは、
それこそ私にとって問題外であるwww

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

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