No.348

芸術という概念の共有は可能か?
(あいちトリエンナーレ2019からみる
芸術という概念の多様化)

text : mama(美学者母)
2019年10月23日(
水曜日)執筆

 

そもそも芸術のみならず、
現在の社会や世界全般に、
あらゆる言語の概念の共有というものが、
非常に難しい時代になってきている。

それはある種の「大きな物語」の終焉とも、
同期する問題ではあるのだが、
サイエンスやテクノロジーの進歩と共に、
多くの人々が「情報」と接する媒体、
つまり「メディア」の多様性が加速し、
松井みどりが提唱した、
「マイクロポップ」な時代に突入している。

 

ひと昔前では、
テレビで流された情報は、
翌日には、
職場や学校、
井戸端会議で共通の話題として、
その情報は「共有」されていたわけであるが、
現在ではスマートフォンなどを通して、
数限りないメディアが存在し、
それぞれ個人が、
情報を取捨選択し、
あらゆる人々が共通の「情報」を、
「共有」しない状況が訪れている。

こういったある種の「共有の崩壊」は、
「情報」というマクロなものだけでなく、
「言語」というある種ミクロであり、
「共有」というものがアプリオリな領域まで、
その「共有の崩壊」が起こってきていると、
私は日々強く感じるのです。

 

それは例えば芸術の分野で考えてみると、
今年非常に物議を呼んだ、
「あいちトリエンナーレ2019」での、
「表現の不自由展」などでも理解できます。

それは「芸術」という「言語」そのものの「概念」が、
「大きな物語」的な、
一つの大きな概念として、
表現者側にも鑑賞者側にも、
全く収束していない事、
それが大きく浮き彫りになったと実感しています。

それは同時に、
「芸術」というものの社会的合意が、
「これは芸術だから」という理由で、
「共有」できなくなったとも言えます。

それはさらに、
「芸術」には「表現の自由」が与えられる、
というある種の自明性までもが、
もう通用しない時代なのだと考えています。

なぜなら、
「芸術」という「言語」としての「概念」が、
表現者側でもそれぞれ多様化し、
鑑賞者側でもそれぞれ多様化すれば、
そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
というものがそもそも「定義不可能」であるからであり、
そもそも「芸術」というものが、
「社会」で「共有」し得ないものになっているからです。

 

この様な事も含めて、
「あいちトリエンナーレ2019」などを考察すると、
そもそも「あいちトリエンナーレ2019」は、
税金が使われている地域芸術祭です。
つまり税金が使われるという事は、
「社会的共有」を意味します。

しかし先述した様に、
そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
それが「社会」で「共有」できないわけですから、
「税金」を使うべきではないのです。

これはパブリックアート全般に言える問題とも言えます。

 

この様な現状を、
現在活動している芸術家は早く気づくべきで、
その事を争っている事自体馬鹿馬鹿しく思うのです。

 

私は「言語」というものを「アート」として、
「造形芸術、「美術」として活動しています、
それは約10年前に宣言した「ウェブアート宣言」、
その概念にも含まれていますが、
「言語」というものが、
ある種「多様性」「多角性」「多次元性」を持ち、
言語自体が二次元的次元から三次元的に立ち上がり、
言語自体が「空間に浮かぶホログラフィック」の様に、
「造形性」を持っている。

その様な私の「理論」が実証されてきています。 「

言語」における「概念」というものは、
一般的にアプリオリに基底されており、
その「概念」は固定的であり、
誰もが「共有」しているという事が、
もはや現在では「崩壊」し、
「言語」における「概念」が、
それぞれがそれぞれに解釈し、
「共有」し得ないものとして現れてきているのです。

 

ではその様な現在において、
どう「芸術は可能なのか?」という事を、
考えていかなければならないわけです。

そこで私美学者母と哲学者大和は、
「狭山美学校」という、
ある種「プラットフォーム」であり、
「アートインターフェイス」であり、
「メディア」であるものを創造しました。

「狭山美学校」という「屋号」であるのに、
「民宿」というものを運営している事からも、
理解できると思うのですが、
そもそも「学校」という「概念」が崩壊しています。

さらに言えば私は「美学者母」と名乗っていますが、
そもそも私は「学者」ではないので、
「学者」という「概念」が崩壊しています。

 

つまりこれこそが、
私が10年前に宣言した「ウェブアート宣言」に、
繋がってくるわけで、
そして皆さんの脳内に存在する、
「狭山美学校」なり「美学者母」が、
「ホログラフィック」のごとく、
立ち上がり造形性を有するのです。

この様な事から、
現在において「芸術は可能なのか?」
という答えは非常にシンプルに可能である、
と言えるわけです。

そして「芸術」において、
非常に重要な「共有」、
つまり「社会的合意点」というものを、
どう作り出すのかというものが、
現在においての「芸術の成立」に、
もっとも重要であると考えています。

これからの「芸術」というものは、
「芸術」を体験する側が、
「芸術」と気づかずに「芸術」を体験している、
その様なものが「芸術」になってくるのです。

それは深遠なレトリックを使い、
人々の無意識に介入し、
「芸術体験」を提供する。

現在の「芸術家」というものは、
非常に知的な操作をするものであり、
知性というものを求められる、
その様な時代になっているのです。

 

 

 

 

美学者母

 

 

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