No.350

生体的反応としての判断、
ホメオスタシスを利用して
生き方を最適化する。
(刹那に生きるとはどういう事か?)

text : mama(美学者母)
2019年11月12日(
火曜日)執筆

 

最適化という言葉は、
昨今の日本でも多用されている言葉ですが、
いい意味でも悪い意味でも、
あまり実用的にうまく運用されていない、
その様に感じるわけです。

 

僕自身小さい頃から野球をしており、
野球少年であり、
高校では鳥取県の高校へ、
野球留学していたわけですが、
そのある種「スポ根世界」を10年近く体験し、
その中でいる時は、
不条理な事、
非合理的な事、
そんな事を一切疑わず、
ある種洗脳されて生きていたわけです。

そして18歳で高校卒業後、
東証一部上場の大企業の就職先まで、
既定路線で線路が引かれた上で入社。

まぁそこまでは全く自分の意志というものは無く、
ただひたすら親のいう事に従って生きていました。

しかし半年もせずにその会社を退職して、
そこからまさに僕自身の「革命」が起こるわけですwww

 

何と言いますか、
それまでの「洗脳状態」から解き放たれた、
その「反動」が強すぎて、
まぁ一般社会からいえば、
「無茶苦茶」な生き方を始めるわけです。

それは自分自身がいかに、
自分の意志で生きていなかったのか、とか。
毎日の様に「暴力」を振るわれて、
理不尽な事を言われて、
口にしていいのは「はい」だけ。

練習方法も何の意味もない、
ただ根性を鍛え上げるという理由で、
考えられた練習メニュー。

結果得られたものは、
良くも悪くも、
その稀に見る体験そのものだけでした。

 

日本は今でも、
「無駄」に努力すること、
「無駄」に我慢すること、
そんな事が美徳とされているわけです。

僕の根本の原体験として、
この様な体験があるからこそ、
高校卒業後、
「合理化」「最適化」する事へ、
自分自身の脳の仕組みを変えていきました。

高校卒業後は本当に色々な経験もし、
本当に悩み苦しみました、
そして僕が出した結論は、
やはり野球で経験した、
ある種の「スポ根」的なものは、
自分にとっても、
人間全てにとっても、
善き事では無いという結論でした。

今の日本では、
まだこの様な「スポ根」的な、
学校、会社、組織というのが、
私が見渡す限り多数派であり、
ある種目的に対しての無駄というのが、
現在の日本において、
最大の問題だと考えています。

 

では僕はどうやってその様な、
目的に対しての、
「合理化」「最適化」する術を会得したのか、
それは皮肉にも、
「スポ根」的に生きていた野球少年時代、
野球留学した高校時代、
その時に会得していました。

これは非常に面白いのですが、
「野球」とか「スポーツ」という目的に対しては、
僕の10年近くの時間というものは「無駄」だった、
しかし「極限に追い込まれた状態」、
つまり「死」を意識する状態で、
どうやって生き抜いていくのか、
そういう「生物」としての「根本目的」にとって、
私は「合理化」し「最適化」していたのです。

皆さまはどこまでリアリティが湧くか、
想像できませんが、
実際に高校の寮では、
寮を脱走するものが後を絶たず、
僕の一年先輩は自殺未遂までしました。

つまり私は、
「野球」をしていた10年近く、
「野球」という目的では無く、
「極限状態」で生き抜く術を会得していたのです。

 

現在41歳になりましたが、
18歳を過ぎてから、
このある種「生き抜く力」というものは、
存分に発揮してきていると思います。

では僕が言う「生き抜く力」と言うものは、
一体どういうものなのか解説していきます。

まずはじめに「生きる」という事は何か?
という事を考えましょう。
「生きる」とは、
違う言い方をすれば「判断する」と、
言い換える事が可能です。

そしてこれを倫理学のトロッコ問題の様に、
考えてみるとします。

つまり「判断」の問題、
すなわち「生きる」という問題です。

一つの線路の上をトロッコが走っています、
そしてその先に二つに別れた線路があり、
一つの線路は崖に落ちていき死んでしまいます。
もう一つの線路は大きな平野の真ん中を、
さらに進んでいきます。

貴方が舵を切るとすればどちらに切るでしょうか?

これはもう意識する前に、
大きな平野の真ん中を進む方向へ舵を切るでしょう。

この判断はもはや思考や考えというものでは無く、
無意識、生体的反応といえる「判断」です。

そしてこれはホメオスタシスとも言えます。

つまり人間は「生きる」という目的に対して、
思考や考えというものを超越した、
無意識、生体的反応としての「判断」を、
ホメオスタシスの表層として行なうわけです。

 

これは何を言い表しているのかというと、
人間は常に「死」を意識することにより、
生きるという「目的」において、
合理的で最適な「判断」を、
生理的つまり「身体性」によって行なう、
という事です。

さらにそれを踏み込んでいうと、
「刹那に生きる」ことにより、
様々な目的にもその生理的、
つまり「身体性」を伴う、
「合理的」で「最適化」された「判断」を、
「無意識」に「生理反応」として行なうのです。

この方法は最も自分にとって、
「シンプル」な判断になります。

つまり「余計」なもの、
「余計」な意味、
「余計」な感情、
「余計」な考え、
それらを全て排除します。

 

私はこの「判断方法」を会得し実践して、
20年以上経ちますが、
当然その判断がうまくいかない事の方が、
多いです。

しかしその判断、
つまりその「生き方」に、
自分自身が晴々しくとても善い気分です。

そして今日も、

「生かして頂いてありがとう」と、

深い感謝の気持ちを抱くのです。

 

 

 

美学者母

 

 

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