No.354

Dead Poets Society

(死せる詩人の会、晴れやかなる死とは何か?)

text : mama(美学者母)
2019年12月3日(
火曜日)執筆

 

 

僕の様に思いをはせるという業をしていますと、
やはり「生きる」とは何か?
「死ぬ」とは何か?
と毎日考えるわけですねwww

特に「死ぬ」ということを考え始めたのは、
本当に小さい頃で、
自分自身の「死」を考えると、
怖くてたまらなかったのを、
今でも鮮明に記憶しています。

特に「死に方」というものを考える様に、
なったきっかけは、
三島由紀夫の影響は大きく、
三島由紀夫という人間の美しさ、
それに魅了され、
私は三島由紀夫が小説家としてではなく、
むしろ「美学者」と考えているわけです。

 

「美」というものを追求していくと、
それは自明的に「死」を考えるわけです。
その考えの中には、
「生まれ方」は選べないが、
「死に方」は選べる。
それはただ単に「産まれる」という意味以上に、
「生きる」という事も、
「生まれ方」に含まれるわけです。

つまり「生き方」というものも、
究極的には「自由意志」など存在しない、
その様な事を考えるわけです。

では唯一人間にある「自由意志」とは、
なんなのかと考えると、
それこそ「死に方」なわけです。

「美」というもを追求し、
「死」というものを捉える時、
ある種「晴れやかな死」というものに、
出会うのだろうと最近実感するわけですね。

小さい頃に「死」を考えた時、
あれだけ恐怖を感じていたわけです、
またこの様な歳になっても、
「死」というものが大変怖いわけですが、
しかしかすかに、
「晴れやかな死」というものを実感するのです。

それは例えば、
三島由紀夫しかり、
西部邁しかり、
それは外形的な美しさではなく、
「美しく晴れやかな体験」だと考えるわけです。

 

私も実際に数年前までは、
「晴れやかな死」などあるわけがない、
と思い込んでいたわけですね。
「死」とは「恐怖に慄く」ものであるってね。

しかし、
母が死に、姉が死に、父が死に、
近しい身内が皆んな死んでいくのを経験し、
特に姉の死の時に強く感じました。

姉が死ぬ前夜に、
もうあぶないので来てください、
という事で病院へ行きました。

その時に姉が、
「ほんまに晴れやかやわ」 って言ったんですね。
翌日の朝姉は死んだわけですが、
その言葉が本当に忘れられません。

まぁこれを読んで、
僕が自死を考えているのか?
なんて感じる人もいるかもしれませんが、
その様な勇気は私にはありませんwww

しかしながら、
「晴れやかなる死」 というものを迎えたい、
そう考えていることは間違いありません。

それは逆説的に、
「晴れやかなる死」を迎える為に、
「生きるとは怖ろしいほど真剣な事である」
という実践をしなければならない、
そう考えているわけです。

 

 

 

美学者母

 

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