No.355

一般的に意味の無い事を行う意味
(今僕が行う事の意味が大きく認められたなら、
僕は一度死んでしまったのと同じ事なのである。)

text : mama(美学者母)
2019年12月11日(水曜日
)執筆

 

僕はこの2週間あまり、
ずっと一般的には意味の無い作業を、
事務所で黙々と作業していますwww

しかし僕にとっては凄く意味のある事です。
僕の芸術活動というのは基本的には、
ほとんどの人達から、
「何をやっているのか意味がわからない」、
というのがほとんどであり、
それ自身を僕自身も理解しているので、
そもそも真剣に自分のやっている事を、
説明しようとも思わない。

なぜなら、
普通多くの人たちは、
「意味のある」という概念世界の内側で、
「意味のある」事に「意味がある」と考えている、
しかし僕は、
普通多くの人たちが、
「意味のある」という概念世界の外側で、
「意味のない」事に「意味がある」と考えている。
つまりこの様な絶対的な認知の違いは、
初めから僕は理解しているので、
多くの人にとって「意味がない」事を、
「意味がある」と言っても、
根本的に理解できない事を知っている。

例えば、
それは意味を超えた、
「概念」というもので捉えてみても同じで、
また僕はその「概念」というものに対しても、
同じアプローチをしている。

それはどういうことか、
つまり構造は「意味」と同じで、
人間の多くの人たちは、
「概念の内側」に「世界」があり、
その中で生きているのだが、
僕は「概念の外側」も含めて「世界」である、
その様な「認知」で生きているわけです。

例えば「概念」の内側では、
多くの人々は「意味はわからない」が、
これが「アート」なんだと「理解」する事ができる。

しかし僕が作る「アート」は、
多くの人々の「概念」の外側に、
「アートを定義」するので、
「意味も理解もできないしアートにも観えない」、
わけである。

もっと明瞭に言えば、
多くの人々にとっての「世界」では、
僕の作品は「観えない」「存在しない」のである。

それは「概念を認知」できない、
つまり物理的にも視認できないのである。
僕はこの様な事を、
明瞭に理解しているので、
今僕の作品が多くの人に認知され、
「意味を持つ」事は、
一つの私自身の「死」でもあるわけです。

私はアートにおいて「理解されない」「意味のない」、
という事を目的にしているわけでは無く、
アートの本質とはそういうものであると、
理解しているのである。
アートとはそもそも「認知的盲目性」の問題を、
大きく抱えているのであり、
本来同時代に生きている、
大多数の人々には「視認」できないものであるのだ。

逆説的に「視認」できないとはどういう事か?

それはゲシュタルトされないという事である。
つまり多くの人々にとって、
それは「概念的」「意味的」ゲシュタルトが、
できないものであり、
それはまさに大多数の人々の「世界」には、
存在しないものなのである。

そもそも人間にとって、
「意味のない」事を続ける程、
「苦痛」なものは無い、
それは皆さんも実体験として理解できるだろう。
それは僕も全く同じである。
しかし僕が実践しているアート活動というのは、
多くの人々にとって「意味がない」のであるが、
私にとってはもっとも重要な、
「命の営み」であり、
「崇高な意味をもった」ものなのである。

だからこそ、
一見多くの人々から観ると「意味のない」事も、
20年以上続けてきているのである。
幸いにも、
稀に個人的に私の活動の支持を伝えてくださる、
方々もおり、
それは特にある領域の専門家の方などであり、
本当にありがたいと思っています。

最後に、
この「意味のある」と「意味のない」、
「概念の外」と「概念の内」、
このある種美的判断は、
非常に明瞭に芸術を判断する事が可能です 。
一般的に一流以外のほとんどの芸術は、
「概念の内」であり「意味のある」ものであり、
本当の一流の芸術は、
「概念の外」であり「意味のない」ものなのです。

つまり本当に一流の芸術というのは、
大多数の人々は理解し体験できないのです。

そこから大多数の人々が「古典」に向かう理由、
それも理解できます。
それは大多数の人々が、
一流の芸術を理解し体験できるまでには、
100年以上の時間軸が必要であるという事なのです。

 

 

 

美学者母

 

 

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