No.361

そもそもアートや美術に
ジャンルや分類は必要ない。
(横断的知見による気づきにこそ
クリエイティビティは存在する)

text : mama(美学者母)
2020年3月3日(火曜日
)執筆

 

 

どうも皆さん、 お久しブリーフ!!!
かなりの間文章を書いていませんでした。。。

その間に私は何をしていたかというと、
まぁフィールドワークですねwww
僕の考え方は身を以て知るという事です!!!

長く僕の文章を読んでくれている人は、
前回のビットコインの価値というものの、
フィールドワークの報告なども、
目にしていただいたと思うのですが、
僕はフィールドワークを大切にしています。

まぁレヴィストロースの構造主義の影響ですが、
構造主義は合理的で機能的であると、
私は考えています。

その上で、
現在私が何をフィールドワークしているのか、
と言いますと、
現段階では詳しくは書きませんがwww

漠然というと、
芸術や美術における旧体制の根幹、
とだけ述べておきます。

このフィールドワークはかなり時間がかかるので、
報告は何年も先になりますが、
きっと面白い報告になると思います。

 

まぁその中でも、
そのフィールドワークで気づいたことを、
この様に書き綴っていきたいのですが。
まぁ芸術や美術における旧体制というのは、
根から腐ってるというのは、
もうこの時点で十二分に体験しています。

まず美術で言えば、
美術の細分化というものが、
旧体制では当たり前に行われているわけです。

しかし現在の最先端では、
あらゆるものを横断的に、
知り、考え、見る、
という事は当たり前の事になっています。

例えば私ごとで考えても、
様々な事を横断的に、
知り、考え、見る、 という事を実践している事は、
私をウォッチしている方は、
理解されている事だと思います。

それは現在において、
創造的活動には最低限必要な振る舞いだからです。

 

では旧体制の美術界ではどうでしょうか?

例えば日本の最高の公募展覧会である、
日本美術展覧会ではジャンルが、
日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書、
五つの部門に分けられている。
そもそもこの日展は、
もともとは官展である。

つまりこれはどういうことかというと、
そもそも日本には明治まで、
現在でいうところの、
美術や工芸という概念すらなかったわけで、
その明治にアートという概念が輸入される、
と同時に万国博覧会や産業革命の影響で、
アートというものの日本語化が必要となった。

そして美術という概念や言葉自体が生まれ、
それと同時に工芸という概念が、
派生的に生まれたのである。

つまり美術という言葉自体が、
明治に生まれ、
そしてその時期の、
西洋のアートムーブメントが、
印象派であった事は、
私の文章で何度も触れている。

そしてその様な中で、
日本国が、
つまり国家が、
国の根幹として美術を重要視し、
それが官展として行われ、
国民国家の共通の概念や価値観として、
ある種統一的概念をもって、
ある種近代の国民国家の、
国民の統一を目的として、
官展は行われ、
現在の日展に繋がってくるわけです。

つまり旧体制の総本山である日展は、
日本国における、
近代国民国家実現への、
政治プロパガンダの象徴であるのです。

そしてそれをアカデミックに価値を担保する、
その様な役割を担ったのが、
現在の東京藝術大学であり、
当時は東京美術学校と呼ばれ、
それもまさに明治期の出来事であるわけです。

この様な形態は、
まさにフランスの真似事であり、
フランス王立アカデミーを中心とした、
国家が行う芸術政策、
芸術行政を、
そのままに日本に輸入したものなのです。

そして現在まで続いている、
日本の芸術大学、
美術大学などの入試で行われている、
デッサン試験などは、
フランス王立アカデミーと同じ方法論を、
導入したものである。

 

と長々と日本の旧体制の美術の成り立ち、
その様な事を書いたわけですが、
この様なことから私が何が言いたいのか、
というとwww

そもそも美術という概念や言葉自体が、
日本国という近代国民国家の統一性の政策であり、
国家の行政として美術という概念や言葉が生まれた、
という至極当たり前な事実。

 

つまり日本の美術という概念や言葉には、
そもそもクリエイティビティを追求するという、
ある種破壊的創造は概念には含まれていないのである。

それはまさに今この2020年の現在も、
しかばねの如くのさばっている現実。

そして現実的に、
日本の美術というのは、
細分化、ジャンル化、専門化の一途を辿り、
工芸美術、美術工芸という、
日本の美術特有の美意識や価値観が生まれた、
これは前述したが、
明治における、
産業革命、万国博覧会、
近代国民国家確立への国家政策、
その行政としての日展、東京藝術大学。
様々なものが混在し、
生まれてきた日本独自の美術なのです。

つまり日本の美術は、
国家というものが前提にある。
それが理解できますし、
さらにいうと、
日本の美術というものは、
概念である前に制度であるわけです。
そして制度上にある美術というものを、
定量的に評価しようと、
なんとか努力した結果、
それは技巧というものに、
最大限の価値を観るわけです。

その結果、
日本における平面である絵画、
立体である彫刻、
それらも含めた美術は、
工芸として現在もなお存在しているのです。

そして最悪な事に、
国家政策としてできた美術には、
利権がたくさんあります。
そしてその利権を確保するために、
ムラが出来上がり、
ますますジャンルは細分化され、
またその細分化されたジャンルは、
専門性を追求し、
また細分化されという悪循環が加速し、
現在に至っているわけです。

 

例えば絵画における、
画家の拘りは、
社会にとって何の意味を持ちません。
例えば具体的に、
芸大美大に合格するためのデッサン。
細分化された公募団体ごとにある、
公募団体ごとの作風。

僕はよく独立美術の展覧会を観に行きましたが、
独立美術には独立美術の審査員が好む作風がありますwww

さらに言うと、
この様な旧体制の美術界で、
一番重要なのは、
権威者に気に入られ、
たくみに政治を行っていく事です。

まさにこれこそが日本の美術の体制なわけです。

 

私はこの様な日本における美術の前提条件、
それを理解してアート活動をしています。
そもそもアートとは国家以前性のものであり、
人間が人間である原理であると考えています。
だからこそアートにジャンルや分類など無いし、
絵画や彫刻などという、
ツールに限定されるものでもありません。
そしてアートとは、
今まで観えなかったものが観える事であり、
今まで知らなかった事を知る事であり、
今まで気づかなかった事に気づく事である。

 

つまりそれは、
二人以上の人間における欠損の補い合いであり、
それはまさに「愛」であるのです。

「愛」こそが「アート」であり、
それは「国家」など無くても成立するし、
「政治」など無くても成立するものです。

すなわち絶対的に違うもの同士が、
補完しあうその時にこそクリエイティビティは産まれ、
創造性を原理として、
パラダイムシフトが起こるのです。

これから長きに渡って、
このフィールドワークは続きますが、
皆様に全容をお届けできる事を、
私は楽しみにしています!!!

 

「愚かこそ美しい」

 

 

 

美学者母

 

 

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