No.368

落合陽一などのサイエンスアートや
メディアアートと工芸の同義性。
(スペック-性能がファンクション-機能を超えた、
オーバースペックに美は無く、
ただただ愚かである)

text : mama(美学者母)
2020年4月1日(水曜日
)執筆

 

 

現在まさにコロナショックの真っ只中であり、
これから長く続くであろう大不況の入り口に、
さしかかっているのは、
誰の目から観ても明らかな状況である。

今回の新型コロナの流行は、
パンデミック(世界的流行)と同時に、
情報(Information)の流行(Epidemic)、
すなわち「インフォデミック」とも言われています。

現在のインターネット社会では、
様々な情報が一瞬にして世界中に拡散し、
さらに様々な個人が憶測やデマを流す事で、
さらに混乱は大きくなっています。

私は現在のこの様な現状は、
表題にも書いた、
スペック-性能がファンクション-機能を超えている。
つまりオーバースペックにこそ、
その問題の真理があると考えており、
それがまさに「人間の愚かさ」なのだと感じています。

この様な「人間の愚かさ」とは何かというと、
それは「欲や見栄」です。

人間というものは、
私たちが思っている程、
賢くもありませんし、
万能でもありません。
私たち人間は、
本来の機能以上の性能を与えられると、
本来の「人間」というものを「過信」し、
そこに「神秘性」を幻想するのです。

それは今回の新型コロナの流行で起こる、
インフォデミックの様な現象でも、
自らが発信する情報に「神秘性」を感じる事。
他にもネット自警団の様に、
「不完全な存在」に対して、
自らが発信する情報に「神秘性」を観る。
その様な「人間の愚かさ」を露呈するわけです。

 

まぁこの様な事を私は最近考えていたのですが、
ふと、以前に書いた落合陽一の事を思い出して。
落合陽一の例えば「魔法の世紀」で言説している事と、
ちょうど明治期にアートが輸入され、
工芸という概念や言葉が産まれた、
そのコンテクストと全く同じである。
その様な事に気づいたのですwww

工芸というのはそもそも、
現在でいう工業と同じ様なもので、
私たちが生活で日常的に使うものを、
手仕事で造っていたわけです。

しかし産業革命以後、
様々なものが機械化に伴い大量生産され、
その手仕事の職人たちをどうにか残そうと、
それが所謂「伝統工芸」であり。
それら「工芸」を「アート化」したものが、
「美術工芸」なのです。

この「伝統工芸」と「美術工芸」の大きな違いは、
もともと手仕事で工芸を職人としてしていた人達、
それらの流れが「伝統工芸」であり。
現在の「東京藝術大学」などの、
所謂学校で工芸を学んだ人達の流れが「美術工芸」です。

さらに持論で言えば、
東京藝術大学などの「油画、日本画、彫刻」などの、
所謂美術を学んだ人達の流れが「工芸美術」です。
この様に「工芸」と言いましても、
かなり複雑な様相があるわけですが。

この「日本の工芸」という概念に通底する原理は、
「オーバースペック」という原理です。

もっと踏み込んで言説していくと、
本来の「ファンクション-機能」を、
産業革命以後に機械化された大量生産品に、
奪われてしまった「工芸」は。
「ファンクション-機能」を失い、
「スペック-性能」を追い求める事でしか、
存在することが出来なかったわけです。

さらにその「スペック-性能」を追求する事を、
「善」とし、
また「認知不要」な領域まで「スペック-性能」を、
追求する事で、
その領域に「虚像神秘性(フィクション)」を創造し、
その「虚像神秘性(フィクション)」を担保に、
「人間の愚かさ」である「欲や見栄」を、
確保してきているわけです。

それは「日本における美術」も同様で、
あくまで西洋概念である「アート」を使い、
いかに近代国家、
あるいは国民国家に、
西洋の国に追いつく為に、
そして追い抜く為に。
日展や東京藝術大学を創設し、
油画、日本画、彫刻などを、
アートそのものの真理を輸入せず。

それはアートそのものが、
西洋の概念であり真理であるわけであるから。
日本国家というものを前提に、
国民国家というイデオロギーを作るわけであるから、
そもそも「美術」そのものが「アート」で、
あってはならないのであるから。
「工芸美術」という、
「スペック-性能」を追求する。

そしてその「認知不要」な領域まで「スペック-性能」を、
追求する事で、
その領域に「虚像神秘性(フィクション)」を創造し、
その「虚像神秘性(フィクション)」を担保に、
「人間の愚かさ」である「欲や見栄」を、
確保してきているわけです。

これはまさに、
日本の「工芸」と「美術」の、
持ちつ持たれつの関係であり、
「人間の愚かさ」の極みなのである。

 

では落合陽一などの、
「サイエンスアート」や「メディアアート」は、
いかに「工芸」であるのか。
それはまさに落合陽一の発言でもあった、
「テクノロジーはスケールしなくてもいい」という、
その考え方そのものが「工芸」なのである。

むしろ「工芸」の様に、
「スケールできない事」を、
「人間の愚かさ」である、
「欲や見栄」で隠そうとしているだけなのだ。
それがまさに「工芸」が辿った様に、
「スペック-性能」を追求し、
「認知不要」な領域に、
「虚像神秘性(フィクション)」を創造する、
まさに「欲や見栄」だけの、
「人間の愚かさ」の極みなのである。

冒頭でも述べたとおり、
人間というものは、
それほど賢いものでもなく、
万能でもありません。

それは「認知」という問題でも、
私たちは私たちが考えている以上に、
何も観えていないし、
何も観ていない。

それは「スペック-性能」以前に、
「ファンクション-機能」さえも、
正確に観えていないし、
正確に観ていない。

現実(シミュレーション)=機能(ファンクション)、
さえも正確に認知できない人間が。
虚像神秘性(フィクション)=性能(スペック)、
などまず認知できない。

現にこの世の中には、
ノーベル賞を貰えない発明や発見は、
数限りなく無数に存在し、
アイフォーンの様にスケールしないテクノロジーは、
数限りなく無数に存在し、
ツイッターやフェイスブックの様に多くの人に、
使ってもらえないメディアは、
数限りなく無数に存在する。

さらにそのことは、
脈絡と続いてきており、
そのほとんどは誰の目にも触れず消えていく。

「スケールしないテクノロジーの時代がくる?」

それこそ「工芸」と同じだwww
人間というものを過信し、
「スペック=性能」に「虚像神秘性(フィクション)」、
を見出すということほど愚かな事はない。

「ファンクション-機能」にこそ真理があり、
私たちは同時にそこにいるだけで、
機能を有し、
美を有しているのである。

 

 

 

美学者母

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓