No.370

世界はなぜ風邪(新型コロナ)で
パニックになったのか。
(インフォデミック時代の生き方)

text : mama(美学者母)
2020年4月17日(金曜日
)執筆

 

 

どうもぉ〜!!!
美学者母です!!!
世界は新型コロナウイルスでのパニック真っ只中。

日本の現状は、
2020年4月7日〜5月6日まで、
緊急事態宣言が発令され、
本日は4月16日です。

さらに各都道府県では、
人が密集する様な場所での営業自粛要請、
またオフィスなどへの出勤も、
出来るだけ控える様に要請されています。

この現状はある意味、
日常の停止であり、
経済活動の停止が現実に起こっている状況です。

さらに今後、
企業の倒産や失業者の増加などで、
不景気が起こる事は間違い無いでしょう。

この様な現状の中で、
私たちはしっかりと、
考えていかなければなりません。

しかし正にコロナパニックの真っ只中で、
現状が把握しきれない状態ではあるのですが。
私たちは本当に今回の風邪(新型コロナ)で、
今回の様な破壊的なコストをかける必要が、
本当にあったのか?

私は正にコロナパニック真っ只中で、
そのことを真剣に考えているのです。

 

その上で今回、
美術が専門の私が。
美学、芸術学などの観点から、
今回の「新型コロナパニック」の、
批評を言説したいと思います。

まず今回の「新型コロナパニック」の、
インフォデミックを捉えるのに、
現代というものは、
どういったものなのかという認識を、
しっかりと認識する必要があり。
その上で「芸術」というものは、
とても有効な認識対象であり、
特に視覚芸術は、
ある意味その時代の表象とも認識できる。
現代の芸術というものを認識する上で、
その前時代である近代の芸術を理解し、
相対化する事で、
現代における芸術というものが、
浮かび上がってくる。

さらにその現代の芸術と、
現代の日常というものを、
相対化する事で、
現代の日常、
つまりコロナパニックが起こった、
私たちの現代の日常の本質に迫る事ができる。

そして私たちの現代の日常の本質を知り、
今後この様なインフォデミックに対して、
世界は何を優先させていくべきなのか、
という方向性を探る事ができるのではないか。

 

※添付図参照 ではここから、

 

まず近代においての「日常」と「芸術」、
それを考察していきたいと思います。
しかし近代をいつまでとするかというのも、
様々な視点により異なりますが、
概ね20世紀中頃までとする事が多いでしょう。
しかし芸術的観点からマルセル・デュシャン以前が、
近代という認識において言説していきます。
つまり今回の言説においての、
近代と現代の定義は、
マルセル・デュシャン以前が近代であり、
マルセル・デュシャン以後が現代とします。

では具体的に近代においての芸術とは、
近代においてどう考えられていたのか、
それは添付図でも理解できる様に、
「日常的現実」と「芸術的現実」、
という相対化によって、
理解する事ができます。

では近代における「日常的現実」とは、
どの様なものだったのか。
それはルネサンスから始まった、
ある種のヒューマニズムの時代の上にある、
「日常的現実」、
その様にとらえる事ができるでしょう。

近代においての日常的現実は、
ルネサンス以前の日常的現実とは違い、
神という「絶対」から、
人間という「矛盾」へと、
日常的現実を変化させた時代であったのです。

それはつまり近代の日常的現実とは、
神という存在(絶対)では無く、
人間という「リアリティ」(矛盾)が、
近代の日常的現実であったのです。

そして近代の人間にとって、
日常的現実とは、
ヒューマニズム的リアリティであり、
それは「矛盾」そのものであったのです。

その様な「日常的現実」における、
「矛盾」は、
ルネサンス以前は、
「神」(絶対)というものに包摂され、
またその「神」(絶対)を偶像した芸術に、
人々は安定した状態を保っていたわけです。

しかし近代のヒューマニズムにおける芸術は、
矛盾を抱えた人間が制作しているわけで。
その様な状況からコンラート・フィードラーが、
芸術学を創始し、
美学とは一線を画した制作プロセスを重視した、
考え方が近代の芸術を芸術論として担保してきた。

その様な制作プロセスを重視した芸術論は、
日本の哲学者西田幾多郎などにも、
かなり強い影響を与えている。

西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という、
考え方にも繋がっている。
現在の日本の大学、
芸術学部などの実践主義は、
この様なフィードラーの芸術論や、
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」が、
理論的担保となっていると考えらえれる。

またフィードラーや、
西田幾多郎の芸術論は、
作品は作家の「芸術活動」の痕跡に過ぎず、
作品に重要性を観ていなかった。

その上で作品と鑑賞者をどう捉えたかというと、
現象学的美学での現象学的還元として、
作家の制作プロセスの追体験(フィクション・感性)。
それらを芸術的現実とし、
「日常的現実」の「矛盾」に相対的に、
「芸術的現実」の「絶対」として、
それらのフィクションを感性的に捉え、
「絶対矛盾的自己同一」の芸術論を理論として、
人間の安定性を保っていたのが近代であるわけです。

この様な事から「近代」では、
「日常」に「矛盾」( リアリティ)を体験し、
「芸術」に「絶対」(フィクション)を体験していた。
その様な時代です。

 

ではその「近代」に対し、
コロナパニックが起こっている、
「現代」の「日常的現実」と「芸術的現実」、
それは添付図でも理解できる様に、
近代での「芸術的現実」が、
現代の「日常的現実」となっている事が理解できます。

これは簡単に説明すると、
近代では芸術的現実であったものが、
現代ではあらゆる意味で、
それが日常的現実になってしまった。

もっと簡単に言うと、
近代での芸術的現実が、
現代では当たり前になり、
日常的現実に変化したわけです。

それは具体的に、
写真や映像、
インターネットや携帯電話、
CGやAR、
アイフォーンやパソコン。

つまり添付図でも理解できる様に、
現代の日常的現実は、
「フィクション」(感性)に変化したわけです。

そしてその様な現代の日常的現実に相対的に、
現代の芸術的現実は、
近代の芸術的現実「フィクション」(感性)から、
現代の芸術的現実「シミュレーション」(知性)へと、
変化したわけです。

まさにその変化のトリガーとなったのが、
マルセル・デュシャンの「泉」なのです。

これが世間的に言われる、
難しくてよくわからない、
「現代アート」「現代美術」の正体です。

 

そして未だに「芸術は感性だ!!!」、
なんて言っている人々は、
未だに「近代」を生きている人間であり。

さらに言うと、
本来的に近代の芸術を担保してきた、
フィードラーの芸術論や、
西田幾多郎の、
「絶対矛盾的自己同一」を理解できないのです。
なぜなら、
現代の芸術的現実「知性」(シミュレーション)を、
体験するには、
その芸術に対する知性的能動性と知性的受動性の、
「絶対矛盾的自己同一」が必要ですが、
近代の芸術的現実「感性」(フィクション)を、
体験するにも、
その芸術に対する感性的能動性と感性的受動性の、
「絶対矛盾的自己同一」が必要なのです。

 

ではここから結論として、
今回の新型コロナウイルスのパニック、
つまりインフォデミックの本質が、
ここまで言説してきた、
美学や芸術論を通して浮かび上がってきます。

それは今回のコロナパニックだけでなく、
例えばフェイクニュースやポスト真実などにも、
同一の本質が言えます。

それは現代における「日常的現実」とは、
フィクション(感性)であるという本質です。
つまり現代の人間の私たちは、
フィクション(感性)という日常的現実を、
生きている。

ではそこで本質的な「現実」を体験し、
認識しようとした時に必要なもの、
それが相対的にある現代における、
芸術的現実「知性」(シミュレーション)なのです。

つまり現代の日常的現実「感性」(フィクション)の時代に、
さらにその「感性」(フィクション)を増幅させている。
それが今回のコロナパニックであり、
インフォデミックです。

もはや「現実」が見えないのです。

私たち人間になぜ「芸術」が必要なのか?

それは人間は「日常的現実」だけでは、
本質的な「現実」が認識不可能だからであり、
人間には「芸術」、
つまり「芸術的現実」が絶対的に必要なのは、
本質的「現実」を認識し体験する為です。

それが現代において、
フィクション(感性)では無く、
シミュレーション(知性)なのです。

この様なインフォデミックが発生する現代に、
深淵なる知性と思考が最も必要です。

それは本質として、
「現実」を見失わない為の「芸術」が、
現代において「知性」であるという結論です。

 

 

 

 

美学者母

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓