みなさんトモダチンコ!!!
毎度おなじみ美学者母でござんす。
まぁ世の中「コロナ脳」で汚染されておりますが、
まぁ「放射脳」と同じ事態でございます。
以前にも申し上げましたが、
この様な事態にこそ人間の本性と言いますか、
その様なものがあからさまに、
表象化されてくるもので、
実に醜いものが観えてしまうわけです。
まぁそれも人間らしさではあるのです。
東日本大震災は、
2011年(平成23年)3月11日、
もうあれだけ色々「あーだこーだ」、
言ってた人間は、
もう何も言わなくなっている。
少なくとも私は、
現にこの様に311の事を常に考え、
情報を発信しているわけです。
つまり結局「他人事」な人間が、
一番その時に騒ぐのです。
今回の「コロナ禍」で騒ぎ立ててる人間も、
次に新しい問題が発生すれば、
すぐにそっちを騒ぎ立てるだけの、
「ヤカラ」として不安を煽る事をするのです。
まさに「無能なコロナ脳」。
この様な人間がなぜ存在してしまうのか。
それはある種の「人間の本能」だから、
と言えてしまうのかもしれません。
それは簡単に言ってしまえば、
「絶対的な何か」を信じたい、
というか「信じている」という事です。
その「絶対」とは、
「絶対的な神」かもしれません。
「絶対的な科学」かもしれません。
「絶対的な存在」かもしれません。
私達人間は一人では生きてはいけない、
だからこそ「絶対的な何か」を、
拠り所として我というものを、
「安定」させたいという、
「生理的」レベルでの、
「ホメオスタシス」として、
常にその安定性を確保しているわけです。
つまり「無能なコロナ脳」というのは、
人間が持つ生理的レベルの、
「自己防御本能」であるが故に、
余計にややこしいものであるのです。
何がややこしいのかというと、
この「自己防御本能」というのは、
生理的レベルの本能的「反応」であるので、
「無意識レベル」の問題であるから、
自分ではそれが「抑制」できないからです。
しかし「人間」だからこそ、
その「動物レベル」の「反応」を、
乗り越えていくことができるのだと、
私は考えているわけです。
先ほども述べましたが、
人間は一人では生きていけません。
だからこそ私達には「愛」があり、
「他人」をも「自分」と同様に、
大切にする事ができる。
この様な観点から、
「放射脳」や「コロナ脳」という、
「動物レベル」の、
「自己防御本能」を抜け出すヒントがある。
それは「絶対」という価値観を捨て去る事。
そして「自己中心的」な考えを捨て去る事。
そして「不完全な我」を引き受ける事。
それに必要なのは「愛」です。
「愛」とは常に「不完全」なものです。
当然一人では「愛」は体験できません。
また我が不完全であるからこそ、
我以外に「愛」を求めるのです。
つまり「愛」とは、
「不完全な我」を引き受ける事です。
この「世界」に「完全」な、
「絶対的存在」など「存在」しません。
「絶対的な神」、
「絶対的な科学」、
「絶対的な存在」。
当然ですが、
「絶対的な我」も「存在」しません。
例えば哲学者のデカルトの言葉で有名な、
「我思う、故に我在り」
という言葉からも理解できます。
それは、
「思う我」と「在る我」は、
同じ我で在ることは不可能であるという事からも、
理解できます。
「我が我」であるという「同一性」は、
常に「矛盾」を孕んでいます。
しかしその「矛盾」こそ、
「絶対矛盾的自己同一」としての、
「本質的人間」と言えるわけです。
この様な考察から私は、
「我思う、故に我在り。我思う、我在るが故に、我無し。」
この様な言葉で、
「不完全な人間」の哲学的回答を述べたいのです。
つまり私は根本的原理として、
「人間は不完全」である。
さらに「人間が認知する全ても不完全」である。
つまり、
「神」も「科学」も「存在」も、
全てが「不完全な人間」の「仮想世界」であり、
「仮想世界にある不完全な完全」なのである。
その様な「眼前たる現実」の真理にたどり着くには、
この哲学的言語を、
「我思う、故に我在り。我思う、我在るが故に、我無し。」
体験し深く理解する他ないのではないか。
「絶対」あるいは「絶対的」という、
ある種の「人間」に課せられた「誘惑」に、
「人間」がどの様に向き合っていくのか。
それは唯一、
「不完全な我」というものを引き受ける他無い。
美学者母