どうも美学者母どす!!!
まぁ私も今年で42歳なのですが、
人生も中盤に差し掛かり、
小さい頃の友人、
若い頃の友人、
そんな友人たちとの差異が、
この年齢になって極端に広がってくる。
その様な事を実感します。
やはり10代後半から20代前半の、
ある種「志」というものの、
少しの違いが、
どんどん年齢を重ねるにつれて、
広がっていくわけです。
まぁ良い意味でも悪い意味でも、
若い頃は大きな夢を語り合っていた友人も、
ある意味「大人」になってしまい、
収まるところに収まっている。
その様な事が現実であり。
また皆様の周りも、
皆様自身もその様なものなのではないか、
その様に推察するわけです。
私は以前から言説している通り、
20歳で自分の命を、
「アート」に賭けると決めたわけです。
その頃には、
どんな友人にも同じ様に、
その様な「志」があった様に感じました。
しかしほんとんどの友人は、
その「志」を貫く事を辞めてしまっている。
それが40歳代の現実です。
この様なエピソードは、
よくある事なのかもしれません。
以前ドキュメンタリーで、
フジファブリックというバンドの、
歴史が流れていたのですが。
結局、
ボーカルの志村正彦の、
本気で音楽で食っていくんだ、
という「志」と、
その他のバンドメンバーとの、
「志」の差異又は次元の違いによって、
最終的に結成当初のメンバーは、
ボーカルの志村正彦のみになった。
しかしフジファブリックは、
現実的にメジャーバンドとなった。
私も志村正彦と同様に、
「アート」を本気で「志」、
本気で「世界の歴史に残る」という、
自分の人生の「目的」を達成する為に、
様々な友人との別れを体験してきた。
それはやはり「寂しい事」である。
だからこそ、
志村正彦の「孤独」を痛いほど感じ。
またその「純粋なる志」が、
いかに「人生の意味」なのかを実感する。
ではここで述べる。
「孤独」、
「純粋なる志」、
「人生の意味」、
とは具体的にどの様な事であるのか。
その事を少し考えてみたい。
私たちは「命」というものを、
「獲得」と同時に「課され」、
「世界」という「空間」に現れる。
それは「上下左右」も、
「理解」できないと同時に「無い」、
その様に「命」は「現れる」。
しかしある時、
「自我」というものを、
「獲得」と同時に「課され」、
「世界」から分離され、
「孤独」を知るのである。
「我」というものを知る事は、
「孤独」というものを知る事なのだ。
「我」を知った「命」は、
「孤独」を抱えたまま、
「好奇心」を持ち、
「世界」を観て回るのである。
そして「母」を知り、
「父」を知る事で、
「自我」では無い「他我」を知るのである。
さらに、
「自我」は「母」の観ている景色や、
「父」の観ている景色を、
一緒に観ることで、
「世界」を知り。
「他我」の観ている景色を創造する事で、
「自我」を「確立」していくのである。
私たちはその「自我」を「確立」したその瞬間に、
自分の知らないものを「観たい」という「衝動」が、
襲ってくるのである。
それは「母」と観た景色でも無く、
「父」と観た景色でも無い。
「自我」が「観たい」と「欲望」する「景色」。
その「景色」を「観たい」と「欲望」し、
その「景色」を「指し示し」、
その「景色」を「観る為に」、
その「景色」が唯一観える「山」に登っていく。
それこそが「人生の意味」なのである。
しかしその山を登りきったからといって、
「私」が観たかった景色では無いかもしれない。
それが「人生」なのであり、
「登っていく」ことこそ「人生の意味」なのだ。
つまり、
「純粋なる志」とは、
その「山の高さ」なのだ。
それは逆説的に、
その「自我」のエフィカシーである。
その「山」を登りきる事に意味は無い、
その「高い山」を「指し示し」、
その「高い山」を「登り始め」、
その「高い山」を「登り続ける」。
それこそが「人生の意味」である。
最後に、
短い人生で、
「高い山」を登る事は、
あまりにも「時間」が無いのかも知れない。
その「高い山」を登り切れない、
その様な事がほとんどである。
しかし、
「命」が尽きる瞬間に観えた「景色」は、
私が観たかった景色に一番近く、
途中で登る事を諦めた人間には、
絶対に観れない、
「美しい景色」だと確信する。
またこの文章に出会い、
この文章を最後まで読んで頂いた方々。
一度登る事を諦めた「山」を、
再び登り始める事をお勧めしたい。
そして、
それぞれの「高い山」の、
「最高に美しい景色」を共に語り合いたい。
さらに言えば、
私にはその景色を一緒に観たいという、
パートナーが居る。
つまりその景色を一緒に観たいと思う、
それが「愛」なのであろう。
美学者母