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No.381

人生の意味とは。
(未だ観ぬ景色を観る為に)

text : mama(美学者母)
2020年7月10日(金曜日
)執筆

 

 

どうも美学者母どす!!!
まぁ私も今年で42歳なのですが、
人生も中盤に差し掛かり、
小さい頃の友人、
若い頃の友人、
そんな友人たちとの差異が、
この年齢になって極端に広がってくる。
その様な事を実感します。

やはり10代後半から20代前半の、
ある種「志」というものの、
少しの違いが、
どんどん年齢を重ねるにつれて、
広がっていくわけです。

まぁ良い意味でも悪い意味でも、
若い頃は大きな夢を語り合っていた友人も、
ある意味「大人」になってしまい、
収まるところに収まっている。
その様な事が現実であり。
また皆様の周りも、
皆様自身もその様なものなのではないか、
その様に推察するわけです。

 

私は以前から言説している通り、
20歳で自分の命を、
「アート」に賭けると決めたわけです。

その頃には、
どんな友人にも同じ様に、
その様な「志」があった様に感じました。

しかしほんとんどの友人は、
その「志」を貫く事を辞めてしまっている。
それが40歳代の現実です。

この様なエピソードは、
よくある事なのかもしれません。

以前ドキュメンタリーで、
フジファブリックというバンドの、
歴史が流れていたのですが。
結局、
ボーカルの志村正彦の、
本気で音楽で食っていくんだ、
という「志」と、
その他のバンドメンバーとの、
「志」の差異又は次元の違いによって、
最終的に結成当初のメンバーは、
ボーカルの志村正彦のみになった。
しかしフジファブリックは、
現実的にメジャーバンドとなった。

 

私も志村正彦と同様に、
「アート」を本気で「志」、
本気で「世界の歴史に残る」という、
自分の人生の「目的」を達成する為に、
様々な友人との別れを体験してきた。

それはやはり「寂しい事」である。

 

だからこそ、
志村正彦の「孤独」を痛いほど感じ。
またその「純粋なる志」が、
いかに「人生の意味」なのかを実感する。

ではここで述べる。
「孤独」、
「純粋なる志」、
「人生の意味」、
とは具体的にどの様な事であるのか。

その事を少し考えてみたい。

 

私たちは「命」というものを、
「獲得」と同時に「課され」、
「世界」という「空間」に現れる。
それは「上下左右」も、
「理解」できないと同時に「無い」、
その様に「命」は「現れる」。

しかしある時、
「自我」というものを、
「獲得」と同時に「課され」、
「世界」から分離され、
「孤独」を知るのである。

「我」というものを知る事は、
「孤独」というものを知る事なのだ。

「我」を知った「命」は、
「孤独」を抱えたまま、
「好奇心」を持ち、
「世界」を観て回るのである。

そして「母」を知り、
「父」を知る事で、
「自我」では無い「他我」を知るのである。

さらに、
「自我」は「母」の観ている景色や、
「父」の観ている景色を、
一緒に観ることで、
「世界」を知り。
「他我」の観ている景色を創造する事で、
「自我」を「確立」していくのである。

私たちはその「自我」を「確立」したその瞬間に、
自分の知らないものを「観たい」という「衝動」が、
襲ってくるのである。

それは「母」と観た景色でも無く、
「父」と観た景色でも無い。
「自我」が「観たい」と「欲望」する「景色」。

その「景色」を「観たい」と「欲望」し、
その「景色」を「指し示し」、
その「景色」を「観る為に」、
その「景色」が唯一観える「山」に登っていく。

それこそが「人生の意味」なのである。

 

しかしその山を登りきったからといって、
「私」が観たかった景色では無いかもしれない。
それが「人生」なのであり、
「登っていく」ことこそ「人生の意味」なのだ。

つまり、
「純粋なる志」とは、
その「山の高さ」なのだ。
それは逆説的に、
その「自我」のエフィカシーである。

その「山」を登りきる事に意味は無い、
その「高い山」を「指し示し」、
その「高い山」を「登り始め」、
その「高い山」を「登り続ける」。

それこそが「人生の意味」である。

 

最後に、
短い人生で、
「高い山」を登る事は、
あまりにも「時間」が無いのかも知れない。

その「高い山」を登り切れない、
その様な事がほとんどである。
しかし、
「命」が尽きる瞬間に観えた「景色」は、
私が観たかった景色に一番近く、
途中で登る事を諦めた人間には、
絶対に観れない、
「美しい景色」だと確信する。

 

またこの文章に出会い、
この文章を最後まで読んで頂いた方々。

一度登る事を諦めた「山」を、
再び登り始める事をお勧めしたい。

そして、
それぞれの「高い山」の、
「最高に美しい景色」を共に語り合いたい。

さらに言えば、
私にはその景色を一緒に観たいという、
パートナーが居る。

 

つまりその景色を一緒に観たいと思う、
それが「愛」なのであろう。

 

 

美学者母

 

 

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