No.383

法の下の平等と刑罰
(法による善悪と、真実としての善悪は違う)

text : mama(美学者母)
2020年7月23日(木曜日
)執筆

 

 

「私たちはそもそも真実など知り得ない」

 

どうもっ美学者母です!!!

まぁ最近はこの様な文章を書く、
それが僕のメインのアート活動なわけですが、
40代になって色々と私自身の思考の移り変わり、
その様な事もあり、
だんだんと文章を書く事が後回しになっております。

創造したいものは沢山あって、
どの創造を優先的に創作していくのか、
なかなか悩ましいのです。

その上で、
美学者母、個人の創造としての、
この様なウェブ上のアート活動よりも。

今は相方の哲学者大和と展開している。

アート作品としての、
「狭山美学校」や、
またいずれ話すことになる。

「お茶と美」という新しい作品。

その他にも同時に、
様々な展開を画策しているわけです。
もちろん、
この様な個人的アート作品としての文章も、
書きたいことは山ほどありましてwww

なかなか「命」というものも、
儚く短いものだなぁ〜と、
生きながらにして体験するわけです。

それでここ一週間位ずっとやってる事が、
「白い顔料が入ったプラスチック」って、
経年劣化で黄色くなってくるんですね。
それをいかに「白く」するか、
という研究をしていますwww。
一日中プラスチックに向かい合いwww
ひたすら紙やすりで一日中磨いたり、
漂白剤につけてみたりwww
有機溶剤で溶かしてみたりwww
結果かなり「真っ白」になったのですが、
究極新品みたいにならないか?
と今日も白いプラスチックと格闘しておりました。

 

まぁそんな余談は終わりにして。

最近というか10年以上前から、
個人的に凄く気になっている事が。

あまりに世の中の人々が、
「絶対」 というフィクションを信じすぎている。
その様に体感するわけです。

それはやはり、
産業革命以降の近代において、
最先端科学や科学技術などが発展し。

また西洋思想的なキリスト教的一神教、
それらをベースに作られた、
教育システム。
「絶対」という「幻想」。

近代以降の大衆が、
その「絶対」という、
ある種の「大きな物語」一点に、
全員が向かっていった。

「絶対なもの以外は間違いである」と。

 

その上で現代人は、
「批判的」であることを忘却し、
「絶対善」や「絶対悪」があるのだと、
洗脳されているのである。

その事を具体的に理解できるものとして、
例えば、
「法の下の平等」 というものがある。

皆さんは、
「殺人罪」で「死刑」にされた人間を、
どう理解するであろうか。
ほぼ全員が「法」で、
「殺人罪」という判決を受け有罪になり、
「死刑」を執行された。

その様に、
刑罰を受けることは「悪」である。
その様に理解するのが通常である。

 

しかしもっとこの事を「批判的」に、
理解する事が出来るのではないだろうか。
それはそもそも「法」とは何か?
「法の元の平等」とは何か?
という批判的思考や批判的精神から、
産まれてくる問いである。

まず「法」の無い世界を考えると、
そこに「高度な秩序」は産まれてこないであろう。
つまり、
近代以降の社会とは、
高度な社会であり、
「高度な秩序」を守る事が必要である。

そしてその様な「法」が、
国家というある種の人の集合体を、
一つの国家として纏めるために、
「法」という「ルール」が必要になり。
また国民国家において、
その「ルール」はどの様な人間にも、
同じ様に守る「義務」があり、
そのルールを破れば「罰」を受ける。

つまりここから理解できるのは、
「法」とは「国家」を纏める為のものであり、
「善」と「悪」を判断するものでは無いのである。

それは「ルール」を破った者に対しての、
「罰」を与えるものが「法」である。

だからこそ、
「国家」によっては「合法」のものが、
「国家」によっては「違法」のものがある。
つまり、
「法」とは「絶対的な善悪」では無い。

その様な事がこの様な事で確認できる。

ではここまでの理解の上で、
先ほど提示した、
「殺人罪」で「死刑」にされた人間を考えてみる。
まず国家(私達)の中で、
法(ルール)を決めて、
それを破ったら(違法)、
バツを与えよう(刑罰)。

その様に法とは「善と悪」という、
二極論をベースに作られたものでは無く、
「高度な秩序」を守る為のシステムである。
その様に考えるべきである。

その上で、
誰も見ていなかった場所で、
「殺人」をしたとされる人間が、
その「刑罰」を決める会議(裁判)で、
どの様に判断を下すのか。

「誰も見ていなかった」、
しかし、
「この人間以外殺した人間は考えられない」。
これは「真実」と言えるだろうか。
それは「可能性が限りなく高い」としか、
言えないのではないだろうか。

なぜなら「誰も見ていなかった」のだから、
誰一人として「真実」は知らないし、
「殺人」をした人間は、
「本当の事」を言っているかもしれないし、
「嘘の事」を言っているのかもしれない。

その上で、
会議(裁判)では有罪か無罪、
有罪なら刑罰を決めなくてはならない。
そして誰も「真実」はわからない。

つまりこの様な現実から何が理解できるのか。

それは裁判というものが、
「善と悪」を決める場所でもなければ、
「真実」を明らかにする場所でも無い事である。

それは提示している例で言えば、
「真実」としてその人間が、
「殺人」をした事を明らかにはできないが、
限りなくその人間が「殺人」をした可能性が高い。

つまりその可能性の高い人間に、
有罪の判断をし、
その「殺人罪」の刑罰として、
「死刑」を処罰するわけである。

ちなみに刑罰とは、
剥奪する法益の事である。

ここまで述べてきた事の確信として、
この「死刑」にされた人間が、
真実として「殺人をした」のか、
「殺人をしていない」のかは、
直接「死刑」という処罰には関係ないのである。

だからこそ所謂、
冤罪がなくならない原理であり、
その逆で、
真実として「殺人」をしていたとしても、
「無罪」になっている人間も相当数いるであろう。

つまり、
「法」とは「システム」であって、
冤罪を産む事も、
またその逆も、
その「システム」としては正常なのである。

なぜなら「法」とは、
真実の善悪を明らかにするものでは無く、
システムとしての「判断」と、
その「判断」に対する相応の処罰を与える。

それが「法」という「システム」である。

このように今まで述べてきたことから、
私は何を言いたいのか。

それは「法」というものを、
「絶対」であると洗脳されている。
その様な場面を散見する。

そして「法」に基づいて、
「絶対善」を我が物顔に叫び、
「絶対悪」を創り出す。

「法」はただ単なる「システム」に過ぎない。

「法」によって「絶対善」も、
なければ「絶対悪」も無い。

「法」など「絶対」では無い。

それはただの「システム」だ、
「国家」を秩序づける「幻想」である。

例えば「憲法」を神格化する人間、
それは「憲法」というシステムに洗脳された、
「憲法」の奴隷に過ぎない。

現代はまさに、
自らを「国家」や「法」から「自立」し、
自らの「思考」で考え、
自らの「善悪」を生きていかなければ、
無意識に「奴隷」と化してしまう時代である。

 

その事に一人でも気づいていかなければ、
もはや「民主主義」は終焉を迎えるであろう。

 

 

 

美学者母

 

 

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